
第十五章

点滅しない信号機、無人の交差点、乗り捨てられた車の列。それらが次々に朱海の視界を過ぎって行く。
「いつまで走るん!」
朱海は竜二の背中に抱きついていた。彼は答える代わりにバイクを右に左に蛇行させた。
「止めて!」と朱海は目を瞑り、彼にしがみついた。黙っている分には安心だが、何か話しかけるとこれである。彼の内面で怒りが燃え立っているのは分かるが、彼女にそれを収める魔法の杖などあるわけなかった。
崎山へ行けそうな道を捜して増田港を出たものの、島の東半分を二周半も行ったり来たりして、高多の商店街に三度目に入ったところだった。
「もう停めてよ、停めて!」
朱海は竜二の痩せた体をぶつようにして揺すった。バイクはバランスを失い横滑りに路上を滑る。心地好い痺れが全身に走って、このまま横転するのではないかという錯覚に囚われる。が、彼がそんなへまをやる心配はなかった。今度も後輪のタイヤを少し軋ませた程度で立直ると、前にも増して猛然とエンジンをふかし、直進し出したのである。朱海は気違いのように首を振り悲鳴を出し続けた。
家々の屋根は曇り空の下ひっそりと佇んでいる。あれだけの噴火があって火山灰の塵ひとつ舞っていない。循環道路はもちろんのこと、路地にも溝にも噴火による影響はすこしも見られなかった。街路樹の緑も青々とし、切り通しの道にも段々畑にも、傾かない電柱にも崎山を襲ったあの不気味な黒い灰は見えなかった。
「もう無理。崎山はもう良い!」
朱海は叫び疲れ、もう降参と彼の耳元で最後の力をふりしぼって叫んだ。彼はヘルメットの頭を巡らして意外にも頷いてくれた。どの通りも通行止めで崎山には船でも出さない限り行けないことは分かったが、そう声に出すと、別の切なさが喉元まで込み上げてきて声を詰まらせた。
竜二は重心を沈めるようにするとハンドルを左に傾けた。そしてそのまま緑の樹木の下を潜り抜けるようにして平和台公園への坂を登った。平和台公園は高台にあり、山の斜面から高多浜一帯を一望に収めることができる。原爆投下の年にできたのでその名がついたのだが、戦争で失われた犠牲者の慰霊塔もあった。
朱海はやっと安心して竜二の背中に縋るように顔を押し付けた。彼はもう態とのように蛇行したりはしなかった。公園は砂利を敷き詰めた広場と、植物園を囲む池と、その上に慰霊塔のある展望台とで他には特にめぼしいものもなかった。
バイクは砂利をはじき飛ばしながら公園の中に入ると、案内板の下で漸く停まった。エンジンを切ると、池に覆いかぶさるように並んでいる柳の木が一斉に靡き、葉擦れの音を伝えてきた。
「降りろよ……」と竜二は前を向いたまま低い声で言った。朱海が彼の肩を借りるようにして降り立ってから、彼も車体を斜めに倒しバイクを離れた。
「後はここから丘を越えて行くしかない」
「えっ、こんなところから?」
「やってできないことはない」
竜二はベンチに腰掛けてタバコを取り出した。そして、朱海の方に試すような目を向けながらそれに火をつけた。
「モトクロスをここの斜面でやろうかって話もあるんだぜ。ホンダの若い連中が何人か下見に来ていた」
「本当?」
竜二は頷いた。オートバイ族の若者を島に呼ぼうということでモトクロスのことは島でも話題になっていた。具体的には何も聞いていなかったが、そう言えば、山の東側は火山灰台地の固い肌を晒していた。竜二の口から出ると、やってできないことでもなさそうに思える。
「昨日はどこへ行っていたんだよ、心配したぜ」
タバコの煙を風に飛ばしながら、竜二は強い視線を投げて寄越した。
「おじいちゃんを捜しに行ってたって言ったじゃないか、ずっと」
朱海はまた同じ話を蒸し返した竜二に訝る目を向け、離れたまま立っていた。
「源造さんのことを皆に聞いたがよ、何一つ手掛りもないんだ」
彼は話の趣を変えると、脱いだヘルメットに肘をついた。朱海は目を伏せ、
「まさか、もう死んじゃったんじゃないだろうね」と呟くと、
「馬鹿、縁起でもねえことを言うなよ」と彼は怒った。しかし、すぐに表情を緩めて、
「久春さんは島の北側に一人で避難したことが分かった。これだけは確かだ。源造さんも山に慣れた人だから、そう簡単に死んだりしねえよ、心配するな」と言った。
しかし、朱海は急に目頭を熱く感じ、額に手を当てたがぽろりと涙を落としていた。泣くまいとすると却って涙があふれてきた。
「いいか、こんなときにめそめそするんじゃねえ。第一、みっともねえだろう」と、竜二は男の兄弟にでも言うような乱暴な口調で言った。
「だって、あたしは……」
「分かった分かった、もう何も言うな」
竜二はベンチから離れて手洗所に入った。朱海はなお暫く泣いたが、彼が出て来たときにはもう涙も汗のように引いていた。
竜二は砂利を鳴らしながら広場を横切ると展望台への石段を踏んだ。朱海も黙ってその後に従ったが、風が二人の背中から吹いて砂塵を巻き上げた。
慰霊塔の立った高台に登り切るといきなり熱風が襲って来た。
「熱いな!」
竜二は顔を背け、頭を庇うようにして身を伏せた。朱海は一歩遅れて高台に登ったがやはり強烈な熱風に見舞われた。
「何だ、あれは!」
竜二は熱風を避けながらも山の斜面に驚きの目を見張った。
島に育った者の見慣れた目には、山肌は過去数回の噴火による溶岩流を積み重ね、それを自然の風化に任せた黒く冷えた光景である筈だった。ところが、今また新たな溶岩流をその肌の上に持ち出して来ている。
それにしても耐え難い熱が吹き付けて来る。夥しい量の溶岩の原には陽炎が立ち、数千度の釜が煮立っていた。
「こっちまでは来ないでしょう?」
朱海は泣いた後で喉が嗄れていると思った。
「そんなことは分からんさ。山のエネルギーは底が知れやしない」と竜二も喘ぐように言ったが、溶岩流は動きを止め、冷却期間に入っているようだった。しかし、一寸下は真っ赤な灼熱地獄であり、魔界であった。
竜二は朱海を振り返り、鉄の骨組みだけを残して無残にも燃え落ちた建物の残骸を目で教えた。
「あそこに四阿があったよな」
「そう言えばあったね」
溶岩の堆積にはまだちらほらと蒸気が立ち昇っていた。飴のように溶けて曲がった鉄骨はその原の中で孤立したように埋まっていた。
「凄え破壊力だな」
「竜二さん、逃げようよ!」
朱海は怖くてたまらずべそをかいた。
「ああ、だけど、噴火はもう終わったんじゃねえかな」と彼は山頂の方を見やった。
しかし、この溶岩流の厚い堆積の下ではまだ生きて地を動かしているマグマがある筈だった。朱海は、
「このことを誰かに早く報せないと」とそう言って竜二を急かせた。
「もちろんだけど、もったいねえな」と竜二は訳の分からないことを言った。
そのとき崎山の上空にヘリコプターが現れた。やがて二人の頭上を越えて、そのまま海の方に飛去って行く。
「新聞社のヘリだぜ」
竜二は両手を振って合図を送った。朱海も一心に見上げていたが、ヘリからは何の応答もなかった。しかし、そのまま海の彼方へ飛去ると思ったヘリが、高多浜の桟橋の上を旋回し始め、降下する気配を見せているのを朱海は見逃さなかった。
「あれに乗せてくれないかしら?」
「何言ってんだよ、あれは取材で飛んでるんだぜ」と竜二は鼻で吹き、呆れたような顔を向けた。しかし、朱海は本気でそう思い、また頼み込めば乗せてくれるような気がしたのである。
「じゃ、あたしが頼んでみるから、あの浜まで連れてってよ。断られて元々じゃない」
「無駄だって! どう言ったら乗せてくれると思ってるんだよ」
「おじいちゃんを捜すって言うわ」
「本気かよ」
見る間にヘリコプターは高度を下げて、もうほとんど桟橋に着陸したようにも見える。
「連れて行ってくれるだけでいいん! それしか手はないんだから」と朱海は竜二の横顔を睨みながら地団駄踏んだ。
そのとき、また一陣の熱風がつむじ風を起こして通り過ぎて行った。砂埃が立って目と言わず鼻と言わず襲い来る。竜二はたまらず両手で顔を被うと、ぺっぺっと唾を吐きながら口の砂を吐き出し、先に石段を駆け降りて行った。
「朱海、来いよ!」
竜二は大きく手を回すと、そのままバイクの方に駆けた。朱海も石段に足を掛けたがヘリが気になってもう一度爪先立ちになり桟橋の方を見た。その間に彼から大きく水をあけられていた。彼女は大急ぎで石段を降りたが中途で見ると、彼はバイクに股がってヘルメットをもう頭に乗せているところだった。
「待ってよ! 待って!」
朱海は一目散に駆けて竜二の背中につかまった。男の背中が昨夜の事を蘇らせた。火照った頬を竜二の背中に押し付けると、気持良さそうにうっとりと目を閉じる。
「おい、くすぐったいよ」と、竜二は背筋を蠢かした。
「何よ、レディに失礼よ」と、朱海は男の背中を叩いた。そして、前よりもきつく抱きついて行った。
桟橋の海の突端にヘリは黒い機体をこちらに向けて着陸していた。機内にサングラスの男が一人見え、外に二人の男が立っていた。新聞記者風の男はヘリの胴体を手で叩いたりしながらタバコを吹かし四方に目をやっている。側に太った腹を突き出した男がいて首にかけたカメラに目を落とし山の方にそれを向けたりしていた。
「ちょっと待ってて」と、朱海は竜二に耳打ちすると、桟橋の方に駆けた。カメラを持った男が先に彼女に気づき、もう一人に教えた。
「済みません、東京から来られたんですか」
桟橋の途中で止まると朱海は二人に頭を下げた。
「そう、今着いたところ」
新聞記者風の方は三十代半ばか、冴えないコートにノーネクタイの格好で、朱海を見ると気さくに手を挙げた。カメラを幾つも首に提げた肥満型の男は二十代で若かった。
「この島の人?」と新聞記者風の男は朱海の方に一歩踏み出していた。
「そうです」
「じゃ聞くけど、この島に空港はないの」
「えっ、空港ですか」
朱海は二人の側まで駆けて来て歩調を緩めた。空港はないと首を振ると、
「ほれ見ろ、ここで正解なんだよ」と男は若い相棒を肘でついて笑った。
「しかし、今時滑走路もないところがあったんですね。信じられないな」と若い男は照れたように頭をかいた。
「お嬢さん、名前は? あ、ぼくは小林、彼は清原君、通称キヨ、よろしくね」と新聞社の名刺を出す。朱海はペコッと頭を下げ名刺を貰うと、名前を言い用件を切り出した。
話を聞いても小林の表情は変わらなかった。
「それで、その源造さんっていくつ? 漁師って言ったけど、なんで山に登ったの? 噴火に巻き込まれたのに警察はどうしてるの」と立て続けに聞く。
「小林さん、そんなに一遍に聞いちゃ可哀そうですよ」と清原がたしなめた。
「ああ、悪い。それじゃ、朱海ちゃんはヘリで空から捜索したらおじいちゃんが見つかるかも知れないって言う訳ね」と、小林は脂ぎった顔を正面から寄せて尋ねた。
「駄目でしょうか。もう丸一日も何の連絡もないんですけど」
「それは心配だね……」
小林は朱海の肩を抱くようにすると、ヘリから離れて歩き出していた。
「先輩、どこに行くんですか」と清原が声を掛けるのに、
「君はそこにいなさい」と命じて、彼はなおも歩を進めた。
「朱海ちゃんのお父さんは何をなさっているのかな? お母さんは?」と声を潜めまた質問責めを始めた。
「それが……」
「ごめん、ごめん。しかし、こういうことはお父さんとかお母さんの許可がないと後々問題になるのは知ってるね」
朱海は頷いたもののそれから先は口ごもってしまった。そして、気が付いたら竜二の待っている近くまで戻って来ていた。
小林も彼を見ると立ち止まり、
「お知り合い?」と聞いた。
朱海は頷いたが、竜二はバイクに股がったままにこりともしなかった。
「兄弟?」
「いえ、違います」
「それじゃ、どういう関係?」
朱海は改まってそんなこと聞かれても答えようがなかった。うまくいくと思ったことがやっぱり駄目かと諦めかけたとき、
「取材に協力してくれたら君の要望を叶えてやってもいいよ」と小林は落胆したような朱海を見て言った。
「どんなことをやればいい?」と竜二は探るような目になった。
「村長に会いたい。それから……」
「ああ、誰でもあんたに紹介するよ」と竜二は皆まで言わせず請け合った。
「君は?」
「俺は島の漁業組合の青年部の代表だ。親父が組合長をしている」
「OK、それなら文句ない。じゃ、このお嬢さんを借りるよ」と小林は朱海の肩に回していた手を外し、竜二にそれを差し出した。
「よろしく」と竜二もそれを握り返した。
ヘリコプターの高度が上がってゆくにつれて島全体が魚眼レンズを当てたように膨らんで見えた。パタパタとプロペラの回る音が規則的に耳を打つ。朱海は恐々下を覗いていたが、海岸線沿いに機体の影が映っているのに気づいて後ろの小林を振り返った。
「どうだね、感想は」と彼は身を乗り出して彼女の視線の方を見たりした。
「思ったより島が大きいんでびっくりしました」と朱海は少し肩をすくめて言った。
「おお、この子は頭が良いよ、キヨちゃん」と小林は体を元に戻しながら相棒に驚きの声を掛けた。
「どうしてですか?」とカメラマンは聞く。
「だって、まず全体を見たもの。普通はこうはいかないよ。ねえ、朱海ちゃんは学校の成績良いでしょう?」と、また顔を前に突き出してきた。
「いえ、全然駄目です」と朱海は首を振った。
「謙遜でしょう。どんな学科が得意なの」とまた肩を叩き、そのまま手を乗せている。
「学科ですか……。数学とかは好きなんですけど、できません」
「数学が好きなんて凄いね。キヨちゃん、この子はやっぱり頭が良い子だよ。利口そうだもん」
「そうですね」とカメラマンは半分付合いに相槌を打っている。
「そうだよ。この子は利口だよ。目のつけどころが違う。そんじよそこらの高校生じゃねえぞ、この子は」と一人で勝手に感心しきりだったが、後ろに体を倒すと相棒に何事か耳打ちした。カメラマンは吹き出し、小林も豪快に笑い声を上げた。
「おじさんたち、何を話しているんですか」と朱海は髪を耳に駆けながら少し睨むようにして二人を振り返った。
「おじさんはねえだろ、おじさんは…」と蛸のように吸口を作って目を寄せる。朱海はぷっと吹いてしまった。
「先輩、そんな顔してると蛸八って言われちゃいますよ」とカメラマンはでっぷりとしたお腹を波立たせて笑う。彼の腹の上で揺れているカメラを見ても朱海は思わず口に手を当てて笑ってしまった。
「あんな野郎と一緒にするな」と、小林はカメラマンの言葉をたしなめた。
二、三十分で一通り島を巡回すると、ヘリはかなりの高度に達し、もう静止してしまったように感じられた。機内は金属的な音で充満してきた。緑島は朱海が想像していた以上に大きく、多くの峰々の連なった山並みだった。崎山という火山一つが中央にどんと聳えているのではなくて、島全体が薔薇の花びらの開いたような外輪山で、谷あり丘ありの複雑な起伏を見せていた。その外輪山の樹林地帯を通過するとき、雪解けのシベリアの森林地帯でも見ているような感じがした。
「どう、キヨちゃん、良い写真撮れてるか」
小林は自分をこんな島に飛ばした上司への悪口雑言をサングラスの操縦士相手にぶちまけていたが、相手がほとんど反応して来ないので、それにも飽きてカメラマンの方に話す相手を変えたところだった。
「はあ、しかし、まとまりがつかないというか……、溶岩流跡が南東に広がって、火山灰は北西に降ってますよね。これはどういうことでしょうか。ぼくには分かりませんが」とカメラマンは首を傾げた。
「そんなこと聞かれたって俺にも分からねえよ。朱海ちゃんに聞いてみるか」と小林は例によって顔を突き出してきた。
「それは……、それは噴火した時間が違うからだと思います。昨日の明け方に最初の噴火が山頂で起こったんですが、そのときは崎山港の方に火山弾なんかが飛んで来たんです。それから、段々に北西の方に噴煙が移って行って、さっき上を飛んだ鏡池で昼前に水蒸気爆発が起こりました。東斜面の溶岩流の方は噴火も爆発もありませんでしたから、いつ起こったか分かりませんが、もっと遅くなってからだと思います」
朱海は時間の経過につれて何度か大きな波があったことを小林に語った。
「何もかもが一遍にドーンと噴いたんじゃないんだね。道理で、そうか……」
小林はやっと納得したように頷くと、考え込むようにして顎を触った。
「もう一度降下するか。朱海ちゃんの言ったように噴火の順々に飛んでみると何か分かるかもしれない。キヨちゃん、ちゃんと撮ってくれよ。一大スクープにして、あの蛸野郎の鼻を明かしてやるからな」と小林はカメラマンの肩を叩いた。
ヘリはすぐに急降下に入った。高度が下がると溶岩流跡と火山灰の降下跡との境界が明瞭になった。その南東から北西に伸びたラインと交差するようにして、前後五つの裂け目と坊主地獄のようなチョコレート色の窪みが認められた。小林はそれらに名前を付け地図に書き込みひとり悦に入っている。
崎山の頂上にはもう噴煙はなかった。
「よし、あれだ、鏡池に行こう!」
身を乗り出してシャッターを切る清原を抱き留めながら小林は操縦士に命じた。
ヘリは鮮やかな緑地に吸い寄せられるように下っていく。マッチ棒の散乱のように見えるものは水蒸気爆発で根こそぎやられた皮の剥けた黒松林だった。さらに降下すると、ごつごつと不骨な岩の器に行き当たった。周囲一キロはあった鏡池の跡地がぽっかりと空洞を晒し、抉りとられた灰色の底には空の色を映して満々と湛えていた夥しい水の一滴もないのである。またもヘリの窓から身を乗り出してシャッターを切る清原を小林がしっかりつかんで、
「キヨちゃん、落ちても良いからね、良い仕事をしろよ」と軽口を叩いた。と、清原は止めてくださいと悲鳴を上げた。
ヘリはまた旋回して今度は崎山の南東の斜面に向かった。

第十六章

朱海の言ったように部屋には何かかび臭い匂いのようなものが籠っていた。昼近くになっても雨戸を閉めきったままでいたが、澤地は立ってそれを開けようとした。
「前の日、犬が夜遅くまで騒いでいたってな……」
いきなりそんな言葉が聞こえてきた。この辺の漁師らしい。二、三人、港の方から戻って来て丁度下の路地にさしかかったところだった。足音が屋根庇の下を通り過ぎて行く。
「動物は勘が良いから何か感じとったんだろう」と若い男がそれに応じた。
「前兆ってやっぱりあるのかね……」などと別の声が聞いている。
澤地は雨戸に手を掛けたままなお暫く立っていたが、男たちはもう路地の奥に入って行ってしまった。彼は雨戸を開けないまま机に戻った。
先程、朱海が連れ去られて行った後も、澤地は閉めきった雨戸の中でじっと動かなかった。アルミの灰皿に目を落とし、それを見るとはなしに見ていたのである。座っていることに飽きると、いつものように仰向けになって天井に目を向けた。現実の溜め息のみが彼を果てしない迷路から救ってくれた。
タバコを引き寄せ、寝たまま火をつける。そして、暫くは煙の行方をじっと追っている。
事もあろうに竜二の前にひよっこり顔を出すなんて、朱海の行動は澤地の理解を超えていた。お陰で自分はとんだ色男を演じることになったが、あんなことをされて後で男がどんな気持を味わうかなんてことは想像の外なんだろう。子供と言ってしまえばそれまでだが、隠そうとしたことが相手にバレて、こっちは好い面の皮である。しかし、見方を変えると、あれはあれで彼女らしい一種犠牲的な行為ではなかったかと思えてくる。あのままだと竜二たちの口車に乗せられて自分が危険な山に入るかも知れないと察知した彼女は、先手を打って敢えて出て来たのではないか。もしそうだったとすると自分を守ろうとしてくれたことになる。
いつの間にかまた寝たらしい。はっとして頭をもたげると、部屋の隅におむすびの皿が置いてあるのに気づいた。いつの間に誰が持って来てくれたのか、まったく覚えがない。子供たちがそんなことをするとは思えないしおかみさんがまた戻って来たのだろうか…。しかしそんなことより、意識が戻って真っ先に頭に浮かんだのは抜き差しならないところに追い込まれてしまった己の立場だった。幼い教え子と一夜を共にしたなどということが教師である者にあり得べからざることのように思えたのである。あれは夢だったと言われても、現実のことだと言われるより信じられそうな気がする。またあのような行為をなした自分が別人に思えて仕方がなかった。と、またも激しい自責の念に襲われて彼は頭を掻きむしりたくなった。
「先生、起きてなさるかの……」
階段の口でおかみさんがお伺いを立てるように聞いた。
「ああ、今起きたところです」と澤地は半身起き上がった。と、鈍痛が走り、頭を石のように重く感じた。
「そうですか、さっき、朱海ちゃんが婦人会の集会場に来て、これを届けてくれって頼まれましたんで」
おかみさんは障子を開けると、膝でにじり寄るようにして、彼に四つに畳んだ上着を差し出した。朱海が出て行くときTシャツの上に羽織っていた彼の上着だった。
時計を見るともう三時を回っている。澤地は受け取った上着の両肩を持って開いてみた。何も落ちて来ない。
「何か言ってましたか」
「いえ、何も、ただ返しておいて欲しいとだけ…」
「そうですか」
澤地はそれを丸めると脇に置いた。
「あの子、組合長の息子のオートバイ、あれに乗って崎山に行くんじゃて。危ないから止めなさいって言うたんですが」とおかみさんは顔をしかめる。
「源造さんはまだ見つからないのですか」
澤地は肩を揉むようにして首を回した。
「二十年前の噴火では、繁造さんが山で行方不明になっとるが、何の因果か、今度はあの人がねえ」
おかみさんはそう言う側から手を振って、縁起でもないですがと打ち消した。
「繁造さんですか……」
「源造さんのひとり息子で登代さんの夫だった繁造さん…。今度も繁造さんのたったひとり子の久春さんを心配して源造さんは山に入ったんでしょうが…」
行方不明者は他にも数名居るようだったが、それは確認がとれていないだけで、源造みたいに明らかに山に入った者とは違った。
「不思議だわよ。そんなことってあるかしらね。隣の奥さんなんか、きっと繁造さんの霊が源造さんを呼んだんだろうって変なこと言い出して」
「まさか……」
近所の犬が激しく吠え出した。ものの気配に興奮しているらしい。澤地は微かに笑ったが、背筋に悪寒の走るのを覚えた。
おかみさんも伝染して、
「こんな話は良くなかったですね」と振り返り敷居際のおむすびの皿を取って彼の前に置くと、
「先生、はやく召し上がってくださいな」と言った。
澤地は黙って頷いたが、朝にあんなことを言って、すっかり食い意地の張った男に思われてしまったと溜め息でも吐きたい心境だった。
「それから乾パンとか缶詰とかインスタントラーメンの非常食が届いていますから後で子供たちに集会場に取りにやらせます。あたしはこれからまた出掛けなきゃなりませんので」と、おかみさんは、後は頼みますと言って降りて行った。
澤地は備え付けの薬箱から鎮痛剤を出し水なしで飲み込むと、そのまま机の前に戻った。押し入れから布団を出そうにも体がだるくて思うに任せない。またぞろ畳の上に長々と伸びると天井に目をやった。
おかみさんの口振りから察するところ昨夜の不始末はまだ人の耳に達していないらしい。何れ、それも近いうち達するであろうが、そうなったらこんな小さな閉鎖社会には一日もじっとしていられないだろう。しかし、それもこれも元をただせば自分が悪いのである。人を恨んだところで何になろう。自分ひとりが責任を取って教職を辞し、島を去れば済むことだった。彼は座布団を枕に仰向けになると、手に触れた上着を顔に掛けて、その中でのたうちまわった。
午後はそのまま静かに過ぎて行ったが、電気はなし、配給以外に水もなしでいよいよ噴火の被害が現実のものとなってきた。食事もおむすびの他は非常食のパンが一つと缶詰類が遅くなって届けられただけで、ついに澤地は雨戸を開けないままでまたも長い夜を迎えることになった。顔を洗うにも歯をみがくにも水が出なければ態々立つこともない。彼はいよいよ暗くなった部屋ではっきりしない頭を抱いて横になっていた。薬の影響で昼間はうとうとしがちだったが、夜になるにつれて目は冴えてきた。おかしなことに彼はまんじりともしないで朱海を待っていた。無論彼女が押し掛けて来る心配はなかったが、万が一にも来てくれたら自分は飛び出して迎えるんじゃないかとそんな夢みたいなことを考えていた。
「水道の送水管は破裂しているし、水源地も被害に遭って、島の千数百世帯は断水したままなんですよ」とおかみさんはローソクを運んで来て、災害対策本部に入った情報を話してくれた。
送水管だけなら応急の復旧は可能だが、水源地でもあった鏡池などの爆発で水の確保が難しくなったということだった。全島に応急給水が実施されたが、水道の完全復旧は二、三週間もかかるということだった。
電気は何とか復旧の見込みが立って、一両日中には点くだろうという。電話の不通も間もなく回復するらしい。道路は当然のことながら方々で寸断されていて、崎山と高多を結ぶ道路で十箇所もの被災が確認されていた。除灰などの可能な区間にはペイローダーが出て、作業を続けているらしい。マグマ水蒸気爆発を起こした鏡池の付近には岩石の山ができていて手も足も出せないので、いずれ別のコースを想定した仮設道路の建設が考えられているとのことだった。
「実は昼過ぎに戻ったときに先生に言おうかと思ったんですけど、崎山高校がやっぱり降灰のために使えなくなっているちゅうで、今日、皆で作業に出とりましたが」
「何ですって!」
澤地は思わず語気を荒げていた。高校のことは唯一自分に任された責任分担だった。
「病気なら仕方がないちゅうて……」と、おかみさんはその件での対策本部での動きを初めて明らかにした。生徒とその親たちが今朝方から三三五五集まっては学校に行き、夕暮れまで作業をしていたと言う。
「どうして言ってくれなかったんですか」と澤地は眉をひそめた。
「でも、先生は寝汗をかいてうなされていなさったで……。学校の掃除なんかは島の者に任せておいても、誰も文句を言わんですよ」と彼女はいたって平気の平左で部屋を出て行った。あまりのことに彼は怒る言葉も忘れてそのまままたひっくり返ってしまった。
翌朝、上空のヘリコプターの音のやかましさで澤地は目を覚まされていた。しつこく屋根の上にへばりついていっかな動こうともしない。暫くして新聞を持って上がってきたおかみさんに聞くと、
「あれは伊豆の島から救援物資を運んで来てくれているところですがの」と教えた。
澤地は雨戸を開け、窓から身を乗り出すようにして雲ひとつない青空を見上げた。しかし、機影は見えない。
米、乾パン、野菜など食料品、毛布、肌着、タオルなどの衣料品、それに医薬品や日用品などがひっきりなしに運ばれ、義援金や義援物資は昨日一日だけで百件を超えたという。そんな話をひとしきりした後、おかみさんは振り返った澤地の顔をまともにとらえて、
「朱海ちゃんがここに来ていたんですかの」と聞いた。その真面目くさった目はもう何もかも知っているような感じだった。
「いや、隠すつもりはなかったんですが…」
澤地は半分だけ開けた雨戸をすっかり開け放つと、おかみさんの持って来てくれた一日遅れの新聞を取り上げた。そして外に背中を向けるようにして窓の桟に腰掛けた。風が心地好く部屋に吹き込んできた。
「そういう軽はずみなことしちゃいかんな……。もしも間違いでもあったら、取り返しがつかんでしょうが」
おかみさんは澤地を水臭いとでも思ったらしい。しかし、最後の一線は越えていないことは頭から信じ込んでいるようだった。
「申し訳なかったと思っております」
澤地は神妙な顔になって頭を下げた。逆におかみさんは慌てて目を伏せると中々顔を上げないで、
「源造さんは二日経ってもまだ戻って来なさらんし、もう駄目かも知れんと皆言うとります。朱海ちゃんのためにも、せめて遺体でも見つかればねえ」と声を湿らせた。朱海が行方不明の源造を夜中捜しあぐねたあげく朝方山を下り、たまたま見つけた澤地の部屋で仮眠を取ったというのがおばさんの描いた勝手な想像であるらしい。
「もう止しましょう、その話は……。疲れているのか、今は何も考えられない」
一面に大きく報じられたニュースはやはりフィリピンの大地震の模様だった。ざっと紙面を捲っても緑島の噴火についての記事は見当たらない。澤地は新聞を閉じても項垂れていた。おかみさんは、済みませんでしたねと慌てて腰を浮かすと階下に降りて行った。彼はそれを見届けて床に戻り、頭から布団を被った。気が付くと、近くでしていたプロペラの音も遥か上空に小さくなり、空の彼方に消え去ろうとしていた。
災害対策本部隣りの避難所に出向くと、二トン積みトラックに畳やら布団が山と積まれて運び込まれて来た。福祉会館やら民宿・ホテルなどが協議して不足分をさらに供出した物資だという。トラック数台でピストン輸送しているらしい。澤地も手伝って避難所の内にそれを運び入れた。
「先生はこんな島に赴任して来て、後悔しているんじゃないですか」と地学の横山が軍手の手を叩きながら声を掛けた。
「いや……」と澤地は苦笑を返した。
「そんなこと言ったって遅いよ。先生はもう島の男なんだから、これからもできの悪いガキ相手に頑張ってもらわなくっちゃ」と遠慮なく彼の肩を叩いたのは体育の保坂だった。
「保坂さんも来ていたんですか」
澤地はお互いに無事な姿を見て、どちらからともなく差し出した手を握り合っていた。
荷を下ろし空になったトラックは次々と港から出て行ったが、最後の一台に三人は乗せて貰って崎山高校へと向かった。
「噴火のときはどこに居られました?」
タバコの火を移したりしながら、三人は教師という職業を忘れて荷台に胡座をかいていた。保坂はタオルで頬かぶりをしていたし、横山は地下足袋を履いて尻にタオルを下げている。
「あたしは高多の家にいましたね。女房がお産で崎山の病院に入院中でしたので、心配で電話したら、これが呼び出し音が聞こえないんですね」と横山はトラックの揺れを片手で踏ん張りながらそのときのことを話した。
「噴火と同時に電話線が切れたんでしょう」と澤地は眉をひそめた。
「よくは分かりませんが、とにかく、そのとき、焦ったの何のって」
トラックがどすんと大きくバウンドする。
「電話は通じないし、仕方がないから車で病院に向かったんだが、図書館のところまで登って来ると崎山の方に黒煙が見えるじゃないですか。ガソリンスタンドから炎が上がっているんですよ……。おそらく火山弾で引火したんでしょうね。あのときはさすがに怖気付いたが、女房を助けなけりゃって、その一心で崎山地区に突っ込んで行きましたよ」
「無謀だなあ……」と保坂は首を振る。
「ところが病院に駆け付けると皆はどこかに逃げてしまった後だったんですよ。鉄の門をこじ開け、玄関の扉をどんどんと叩くが中から一向に応答がない。あたしは拍子抜けしてその場にへたりこんで暫くは動けなかったですよ」
「奥さんはどちらに避難なさっていたんです」と澤地は聞いた。
「噴火後、あいつらはいの一番に港から船で沖へ出てたそうです。空を見上げると噴煙が数キロにも上っている、時折小石大の火山礫が降ってくる、ピカピカッと青白い稲妻は走るわで、こっちはほとんど生きた心地はしなかったですね」
「おっちょこちょいの山さんの面目躍如といったところだな」と保坂が腹を抱えて笑い転げた。澤地もそれにつられて吹き出しそうになった。
「いゃあ、親孝行はしとくもんですよ。いよいよ駄目かなって思ったとき、胸の内がシュンとして、年老いたおふくろに着物の一枚も贈ってやっとけばよかったと後悔したもの……」
「そりゃ良い心掛けだ、今からでも遅くないですよ」と保坂がからかう。
消防団員が一軒一軒しらみつぶしに残留者がいないかどうか確かめに回って来て、車の中で動けなくなっていた横山は辛うじて救出されたという。
「初めて知ったけど、火山灰はワイパー位では落ちないんですね。べっとりとフロントガラスにこびりついてしまって、ありゃ、始末に終えないな」と横山は眉をひそめた。
彼の奥さんは増田の産院に移されて母子共にまったく影響なく無事だったらしい。彼はそれを語った後、尻のタオルを取って水洟をかんだ。
保坂は少し神妙な顔になって山の方に目を移した。崎山は一昨日の噴火など忘れたかのように、青空の下、静かに佇んでいる。
「しかし、噴火が一日の内に終わってくれたから良いようなものの、もし別のところで噴いたりしていたらわれわれも命はなかったですよ」と横山は真顔で言った。
「割れ目が次々に口を開けて北西に向かっていたんだが、途中、鏡池に誘われるようにして向きを変えたでしょう。あれで山が抜けたんですよ。そうじゃなきゃ、溜りに溜ったエネルギーが一日位の噴出でおとなしくなる筈がない」
この保坂の分析に横山も頷いた。車がバウンドする度に三人は大きくのけぞったり、右に左に振られたりしていたが、トラックが急に停止して三人は荷台の上を滑った。
見ると、前方より乳牛の群れが路上を歩いて来る。七、八十頭はいそうな一大集団で道路いっぱいに広がってのっそりのっそり歩いて来る。車はエンジンを切らないまま、その牛の集団をやり過ごそうと待っている。
牧夫が長い竹の棒で牛たちを適当にあしらいながらトラックのところまで来た。
「あんた、無事でよかったな」と、横山がきさくに声を掛けるのに、
「ども、ども……」と、牧夫は愛敬の良い笑顔を作って麦藁帽子を取った。
「久春さん、あんた、どこで噴火に遭ったんかね」と横山は聞く。噴火の真っただ中にいた男に興味を抱くのは彼でなくとも等しく同じだった。澤地や保坂はもちろん、運転席の男も窓から顔を出した。
しかし、久春の返答ははっきりしないものだった。皆はじっと彼の言動を凝視していたが、誰も彼の言う意味を理解しなかった。ただ、包帯をした人差し指を山の、ある一点に向けて、
「あこ、あこ……」と何かを一生懸命教えようとするのには、
「ああ、あそこに居たんだね」と、皆は頷いた。しかし、その辺りが崎山のどの辺りになるのか誰も知らなかった。牛はトラックに鼻面を擦るようにして、悠々と通り過ぎて行ったが、久春はなお暫くそこにいて、横山と話していた。
別れ際になって、澤地も笑顔で彼に会釈を送った。
「そう言えば、山岡が先生のところにお世話になったとか聞きましたが……」と横山がタオルを後ろに戻しながら聞いた。ほう、と保坂が驚きの声を上げる。
「源造さんが行方不明で……、あいつは帰るところもなくて」と澤地はタバコをくわえ、保坂から火を貰った。
「いいところに先生の下宿があったという訳か、他の連中は皆窮屈な思いをしていたが、やっぱりあいつは要領が良い」と、横山は鼻を鳴らした。
「山岡のやつ、寝相が悪かったでしょう」と保坂が好奇の目を向ける。
「いや……」と澤地は苦笑に紛らして目を伏せた。
「おっ、これは怪しいぞ」と横山が澤地を指差して豪快に笑った。そのとき、トラックが突然走り出して三人は横に大きく傾いた。
間もなく通行止めのところまで来てトラックは止まった。降礫が道路の通行を遮っているのである。しかし、そこからは高校まで歩いて三十分位のところだった。三人は荷台から下りると、ゴツゴツと石の尖った道を歩き出した。
「澤地さん、どうです、こういうところは地下足袋でないと」と横山は子供のように得意がってそれを見せびらかした。
「山さんはいいな、そういうのを履いてもピタッと決まって見えるから。ぼくらスニーカー世代は中々そうはいきません」と、保坂は澤地にウィンクして笑った。
「わたしだってスニーカー位持っているよ」と横山は白けた顔をする。
「ああ、去年の運動会のあれですか。あれは山さん、ただの運動靴っていうんですよ」
「こいつ、人を馬鹿にすると許さんぞ」と横山は腕を振り上げて保坂を追った。
「悪かった、悪かった」と保坂はへっぴり腰で逃げる。やがて横山に首ねっこを押さえられて悲鳴を上げた。
澤地は笑いながら二人の後からついていった。

崎山高校にはすでに大勢の生徒や父母が集まっていて降灰の除去に余念が無かった。澤地は建物の内部に入って、被害の模様を一々点検して回った。窓ガラスはほとんどが割れて廊下や教室内部にも散乱している。壁も爆風で崩れ落ちたところもあった。しかし、鉄筋の建物本体はそのままの格好で残っている教室がほとんど無傷ということで、このままなら授業は一週間もすれば始められるのではないか思われた。屋上に上がると、指呼の間に雄大な崎山の山容が望めた。山からこっち緑の森も林も畑地にも降灰が認められたが、徹底的な破壊という程でもない。
「先生!」という女生徒たちの声にびっくりして下を見ると、手に手に箒や除灰用の道具を持った生徒や教師たちの顔が屋上を見上げていた。頭をもたげるようにしてしきりに手を振っている。その側で親たちは深々と頭を下げた。
「先生、後で海に行きませんか!」
女生徒のひとりが声を掛けた。
「良いけど、何をするんだ」と彼は聞いた。
女生徒たちは一斉に笑った。
「掃除した後、汗を流すのに、皆で泳ぐんですよ、先生も裸になって私たちと一緒に泳ぎませんか」
健康的な笑みが女生徒たちの顔に弾けた。
「ああ、じゃ、後で」
彼女たちに落胆したような表情はない。むしろ内からの活気に目を輝かせている。彼は屋上を去るときもう一度崎山を見たが、島の暮らしの肌合いを一瞬だが垣間みた気がした。

第十七章

島が今回の噴火から完全に立直るのにどの位の時間がかかるのだろう。電気、ガス、水道、電話といった公共性の高い機能は間もなく回復し、島にも日常が戻ったかに見えたが、意外に長引いたのが、また噴きはしないかという神経過敏な反応だった。
学校の授業も噴火後僅か一週間目に再開されたが、二日、三日に一度は災害対策本部からの緊急指令でバスによる崎山地区からの脱出が繰り返されていた。山に異変が起こったという通報からであったり、火山性地震によるものであったり様々であった。
駅で電車が発車するときに鳴らすようなベルがけたたましく校舎内に響き渡ると、授業中であろうが、休み時間であろうが、
「皆、落ち着いて体育館に集合!」という指示が出される。
生徒たちは下校時と同じくカバンを持って急ぎ足に体育館に入る。整列も早く、いつも数分で避難準備は完了する。近くの操車場からバスが体育館脇に横付けされるのは大体五分後である。生徒たちは三台のバスに乗り込み本部からの指示を待って、その日の目的地に向かう。大概は増田港が多い。バスの中でも生徒たちは付き添いの教師の指示通りに動き、無言で従順である。ふざける者ひとりいない。
しかし、避難の回数が重なるにつれて、警戒警報の解除も早く、しかも形式的になってきた。当の崎山は綿雲の下に落ち着いて噴煙ひとつ上げていないのだから無理もない。警戒のし過ぎであり、神経質になり過ぎているのは誰の目にも明らかだった。
警報ベルが鳴り出すと、澤地はその度に心臓が凍るように感じ、その後長くドキドキが止まらない。実際の噴火よりもかえってこういう人為的な警報の方が恐怖感も倍加されると思った。
そんなある日のこと、朝の授業に出ようとした澤地の耳に職員室のさり気ない会話が入って来た。
「山岡が来ていましたよ」
「ほう、元気そうでしたか?」

澤地は振り向きもしないで廊下に出ていたが、この一言はけたたましく鳴る警報ベルよりも彼の心臓に応えた。しかも、これから彼はその教室に向かわなければならないのである。チョーク箱と教科書を手に持って、平静を装って廊下を歩いている自分が偽善者に思えてくる。
朱海はひとりだけ白いコットンのつなぎの服を着て、肩にはレース模様のカーティガンを羽織り、教室の真ん中の席で皆の注目を浴びながら背筋を伸ばしてきちんと座っていた。
朝の挨拶が終わって着席したとき、澤地はその私服に目を向けた。
「制服は噴火ですっかり駄目になっちゃったんです。仕方がないからお母さんがこれを着て行けって……」
朱海は探るような目でそう答えると、久しぶりに会った嬉しさでこぼれるような笑みを作った。
「ああ、そうか。それなら仕方がないな」と澤地は頷きを与えていた。
「先生、ずるい」と他の女生徒から不満の声が上がる。真新しい彼女の装いは地味な制服ばかりの教室に清々しい空気を運んで来たような感じだった。
「あたしも明日から着て来よう」と頬を膨らませて言う生徒には、
「おまえが着たって似合わねえよ」という男子生徒からの揶揄が飛んだ。
「随分ね、覚えてろよ!」とその女生徒は机を叩き男言葉で応戦する。どっと教室内が沸いた。
しかし、当の朱海はそんなやり取りに表情ひとつ変えないで、真っすぐ澤地に顔を向けたまま身じろぎもしない。
「お母さんはもう良いのか」と言葉を掛けると、彼女は頷き、
「はい」と短く答えただけだった。
授業の方はそのまま自然に入れたが、澤地は五十分の間、できるだけ彼女と視線を合わさないようにした。思わず目と目が合っても彼の方から先に逸らしていた。
何とか無事に授業を終えて教室から出ると背後に彼女のものらしい足音がした。しかし彼は一度も振り返らないまま、急ぎ足で職員室まで引き上げて来た。
「澤地先生、山岡が出て来たそうですね」と教頭が待ち構えていて聞いた。
「はい、母親はもう良いとかで……」
澤地は同僚たちの視線を感じて顔が赤らむのを覚えた。
「久しぶりに先生に会って、あの子も喜んでいたでしょう」と、横山もお茶を飲みながら顔を向けた。
「はあ、そんなことはないと思いますが」
澤地は机のものを片付けるようにして、ろくに横山の方を見なかったが、
「噴火のあった翌日、あいつ澤地先生の下宿に泊まったというんですから、図々しいとは思いませんか」と大声で披露するに及んで、職員室にいた教師たちは一斉に沸いた。
たまたま安藤先生がその場にいなかったから良いようなものの、澤地は穴があったら入りたい心境だった。
しかし、昼前に授業から戻って来た澤地は朱海が午前中で早退したのを知って驚いた。
「理由は何ですか?」
「教頭先生に何か言っていたようですよ」と同僚の先生が教頭の方に目をやる。
教頭は書類に目を通していたが、眼鏡越しに淀んだ目を投げて寄越しただけで、彼女の早退の理由については何も言わなかった。
「そうですか……」と、澤地は担任としての立場を踏みにじられたように感じ、敢えて彼の方から聞こうとはしなかった。教頭もすぐに職員室を出て行って、その件は棚上げにされた。ところが、翌日もまた朱海は早退したのである。
「担任のぼくに何の断りもなく帰るなんて、勝手な奴だな」
澤地は些細なことで苛立ち、同僚たちが朱海の話題を出すような場合も、そこに何か態とらしい意図を感じて一々かっかと血をたぎらせた。やがて、一人去り、また一人と彼に好意的だった同僚までもが彼の許を離れ、声さえ掛けてくれなくなった。
逆に、生徒たちの澤地に対する親近感は日増しに顕著になって来ていた。海で遠泳などに付き合っている内に連帯感のようなものが芽生えたのか、一緒に真っ黒になって校舎を清掃したことが彼らの澤地に対する余所者意識を払拭したのか、噴火前とは違って一人一人の生徒に信頼されていることが実感出来るようになっていた。授業と授業の合間も教室に残って、彼らの相手をしている方が、職員室に戻るより気が紛れるようになった。しかも、生徒たちと触れ合えば触れ合う程、彼らの微妙な心のゆらぎが手に取るように分かり、目覚めかけた精神をもそこに見て、教師としての至福も感じるようになっていたのである。
「先生はこの島で結婚してずっと居てくれるんでしょう」と言われたときには、澤地は胸が詰まって動揺を隠すのが大変だった。もう別れがそこまで来ていることは彼自身自らが決定したことではなかったか。辞職願いはすでに校長の許に提出してあった。
朱海はまた無断で欠席が続くようになり、彼女の机のみポッカリと穴の開いたような日々が過ぎて行った。学校での澤地は彼女の事に関わる気力も興味も抱けなくなっていた。
一学期が明日で終わるという放課後、恒例の飲み会があるということで澤地も残るように誘われた。いつもは裁縫室で使っている和室の大広間をこの日ばかりは開放して近くの料理屋から取り寄せた磯料理と酒で一晩飲み明かすらしい。
その日の昼下がり、澤地は校舎の屋上のベンチに腰掛けて目の前の海を見ながらタバコを吹かしていた。暫くして背後に人が立ったようなので顔を半分巡らすと、
「先生も今夜の慰労パーティーには出られるんでしょう」と、安藤先生が態とらしさを隠すように言って、そのまま前に歩いて立ち止まった。膝までのスカートの襞が風に揺れている。
「ええ、先生は?」と問い返す。
「もちろん、出席しますわ。この学期は本当にいろんなことがあって、あたし、まだ自分の中で何一つ整理できていないんです。こんな機会ですから、皆さん方にいろいろお聞きして、お知恵を拝借したいと思いまして」と希望に張り切った声を出し、ふと、澤地を振り返り見た。
「なるほど」と澤地は頷いた。自分も同じようなことを考えていた。ただ、彼の場合は、短い期間だが世話になった人たちに義理を果しておきたいと思ったからだが、それは同時に十年近く務めてきた教職との決別にもなる筈だった。
「ところで、夏は東京にお帰りになるの」
風を全身に受けるようにして安藤先生は澤地の正面に背中を向けて立っていた。
「ええ……。先生は?」
「あたしも故郷に帰りますわ。今年の夏はいろんなところに行ってみたいし……。先生のご予定は?」と、くるりと振り返る。
「別にありませんが……」
「あら、詰まらない。先生はまだまだ老け込む歳ではございませんでしょう」と、体を弾ませてベンチに来ると、いきなり彼の隣に腰掛け、肩をぶつけてきた。彼は、はあと頷いたが、彼女の方に顔を向けようとはしなかった。

教員、事務職員合わせて二十名程の膳がセットされた裁縫室に集まり、まずは教頭の音頭で乾杯をすると、一学期間を労う挨拶が主任クラスの数人からあった。どこの学校でもそうだが、教育者というのは打ち上げパーティーひとつとっても仕事抜きではできないらしい。事務引き継ぎやら何やらこと細かに連絡事項が続いて目の前の伊勢えびの鮮度をいたずらに落としていた。
澤地は不味そうにビールのコップに口を寄せながら、そんな話を聞くとはなしに聞いていたが、噴火の話が加わるとさすがに顔を上げてその方を見た。それ抜きでは一学期間の経過が語れないかのように誰の口からもその話は出た。
噴火で避難したとき、おにぎりと味噌汁の配給を受けて、それを黙々と口に運んでいる自分がどんなに惨めであったかとか、戸板に乗せられて来た病人や寝たきり老人を見て気の毒に感じたとかいう避難所での生活を話す人もいた。
屋根に砂を撒くような音で目覚めたこと、戸を開けて外を見ると夜明けの山にオレンジ色の炎を見付け噴火を知ったこと、静電気の放電現象で噴煙の中に青白い光が走り、世にも不思議な幻想世界が現出するのを見たことなど、噴火の生な体験談には事欠かなかった。
澤地も体験者の一人としてそんな話に素直に頷くことができたが、たまたまその期間島を離れていた一人が、この島に二十年も住んでいながら、肝心のその時にいなかったことを悔やんで、
「緑島の噴火を写真集で見るなんて馬鹿げている」と言ったのには皆笑った。
「火山と海女という本で山岡さんが出てましたね」と、安藤先生が言うのに、
「そう、あれあれ。猫が電線に掴まって宙ぶらりんになっている写真なんかは衝撃的だったな」
「あれは牧場の売店の黒猫ですよ。噴火に驚いて電柱を上ったんでしょうな」と別の教師が応えた。
「先生、着任早々とんだ当たり年になってしまいましたが、こんな島は真っ平御免と、帰ってしまうようなことはないでしょうな」と教頭が、ビール瓶を片手に近寄ってきた。
「教頭先生、ベルトが外れていますよ」と、澤地はコップを差し出しながら言った。
「まあ、良いじゃないですか。最近腹が出て来て、こうしとくほうが楽なんですよ」とビール瓶を傾けながら得々としている。
「どうも、もう結構です。今度はぼくが注ぎましょう」と、澤地はコップを置くと、側のビール瓶を持った。
「校長に聞きましたよ」
教頭は赤い顔を近付けると、声を潜めて素早く言った。澤地は頷いたが、別に驚きはなかった。ただ、どうぞ、と持ったままのビールを彼の方に突き出した。教頭は自分の席からコップを持って来ると、
「なんとか考え直すという訳にはいきませんかね」と下手に出て、コップが泡立つ液体で満たされるまで待っていたが、澤地が瓶を下げると同時にずる賢い目を上げ、口とは裏腹に嬉しくて堪らないという表情を露骨に表して無遠慮に人の目をのぞき込んでくる。
「その件は校長先生にお答えします」
澤地は自分もコップを取って、目の高さまで持ち上げると、一気に喉に流し込んだ。
「ええ、それはもちろんですが、何とか色良い返事を待っています」と、教頭もコップを傾けた。そして、次の獲物、若くて美しい安藤先生の方に狙いを定めると、
「先生、お一つどうぞ」と言って、またベルトのバックルをぶらぶらさせながら近づいて行った。彼女は澤地の斜め前に膝を崩して横座りに座っていたか、教頭のあられもない姿に目を上げると、キャッと叫んで、嫌な男にキスされた後のように手の甲で口を被い顔を背けた。
「教頭先生、セクハラはよくないよ」という声がかかるとどっと笑い声が起こった。教頭は安藤先生の前に跪いて平謝りに謝り、気分直しにお一つとビールを勧める。彼女も仕方なくそれを受けてその場は収まった。保坂が立って来て彼女の耳元で何事か囁き、また立って行ったが、彼女はついにビールに口を付けなかった。
盛り上がったり白けたりを繰り返しながら宴は進み、夜も大分更けた頃ようやく校長が現れ上座に収まった。澤地はその方に何度も視線を投げたが、校長は彼の方を見ようともしなかった。
保坂が澤地の許に来て、安藤先生を送って行くが一緒に出るかと誘った。他に事務の女性と二三若い教師もいると言う。しかし、このままここで泊まり込む積もりなら残れと言う。
「冗談じゃない」と澤地は上着を引き寄せた。
「では、行こう」と保坂は頷いた。
宴会を途中で抜け出すのは面倒で、厄介なこともある。特に校長の前でそれをなすのは勇気が要った。案の定、教頭が止めに入る。横山やベテランの教師たちもあからさまに面白くない顔をする。場が険悪な雰囲気になったとき、校長が助け船を出して、
「それでは、今夜はこれでお開きとさせていただきましょうか」と立って、簡単な閉会の辞を述べ、ホテルから間もなく車が迎えに来るから二次会にはぜひ参加して皆で繰り出そうと気勢を上げた。場は活気を取り戻し、そのどさくさに紛れて座を立つ者は立った。
「澤地先生、ちょっと」
校長が廊下に出た澤地を呼び止めた。
「はい……」
澤地は保坂たちに先に行ってくれと頼むと、校長に向き直って改めて頭を下げた。
「例の件ですが、受理致しましたので……」 校長は短く言った。
「それはどうもありがとうございました」
澤地はほっと肩の荷を下ろして表情を開いた。校長は頷き、回りに人がいないのを確かめて彼の肩を抱くと、
「ただし、九月の二学期スタートの時点まで待ちます。それまでに気が変わったらまたこの島に戻って来てください」と耳打ちした。
驚いて見返す澤地に、どうしても駄目な場合は、自分が昔とった杵柄、代わりが見つかるまで代講をやると言う。
「もうお分かりでしょう、ちっぽけで、流行らない島ですから、将来有望な方を繋ぎ止めるものとてないんです。学校運営を任されているわたしなど、正直自己嫌悪に陥るときもありますよ」
校長は澤地の肩から手を離すと、建物の突き出しへ出るドアを開けた。澤地もその花壇になっているベランダに出たが、丁度校庭に保坂たち数人の影が外灯に照らし出されて並木の向こうにぶらぶらと歩いて行くのが見えた。
「あなたが辞めると安藤先生も辞めるかも知れない……。今やお二人が我が校のスターですから」
気のせいか、安藤先生が立ち止まってこちらを見たような感じがした。後ろでアシストしていた保坂が彼女を促してそのまま大樹の影に消えた。ただ、彼女は高いヒールを挫きそうになっただけなのかもしれない。
「辞意を申し出たのは、あれに書きましたように個人的な理由によるものです。この島が嫌とか、そういうのではなく、教職そのものがわたしには重荷になったということですので……」
澤地はベランダの壁から離れて、鉄製のベンチに腰掛け、深く項垂れた。
「重荷? さて、わたしには分かりませんが」と校長はタバコを出してくわえた。
「それ以上は聞かないでください! 実は、ここ数週間で、ぼくの中で何かが変わりかけているのです。噴火のせいかもしれない。いや、誤解しないでください、それとこれとは話は違いますから」
澤地もタバコをくわえ、校長のタバコにつけた火を貰って、顔を背けるようにして煙をはいた。
「先生にお預かりした辞表は、ここにあります」と校長は上着の内ポケットから封書を取り出した。
「この場で破り捨てましょうか」とそういう手付きをする。
「破ってください。しかし、そんなものは何度でも書けます。問題はそんなことじゃない」
「生徒たちはあなたを待っていますよ」
校長にいきなり肩を叩かれて、澤地は振り返った。差し出されている辞表に愕然として見守っていると、校長は黙ってそれを彼の上着の内ポケットに返した。そして、そのままベランダから沸き立った宴会場に姿を消して行った。
翌日は一学期の終業式で、講堂での式の前に澤地はクラス全員の通知表を持って教室に入った。ところが、珍しく朱海が出席していて、彼を見ると頬を赤らめ顔を伏せたのだった。
澤地は一人一人に成績表を渡しながら短くコメントを差し挟んでいたが、朱海の番になると絶句してしまった。彼女は当然のことながらオール1の評価しかされていなかったのである。彼は少しためらったが通知表を閉じると黙って彼女に渡した。彼女は丁寧にそれを受け取り頭を下げて席に戻った。全員に渡し終え一学期の総括をやっている間にチャイムが鳴った。時計を見ると、終業式の開始の時間になっている。彼はついに別れの言葉を言えないまま言葉を結ばなければならないことに気づいた。
「夏休みの間、皆、体に気を付けて……」と云うと、生徒たちはろくに聞きもしないでもう立ち上がっている。机や椅子をばたつかせる音の中で起立、礼の号令がかかった。
「先生、また来てくれるよな」と一人の男子生徒が帽子を坊主頭に乗せながら聞いた。
「さあ、どうかな。分からんよ」と応えると、
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと来るさ」と他の生徒たちが澤地の方に目を向けながら、先を争って廊下に飛び出して行った。
澤地は生徒たちの駆け去った廊下をゆっくり歩いていたが、曲がり角に朱海が背中を向けて立っているのに出くわした。
「山岡……」
朱海は肩を震わせて泣いていた。不憫に思い肩に手を置くと、彼女は振り返り、
「先生、悔しい!」と涙で濡らした顔を向けいきなり抱きついてきた。柔らかい感触が蘇った。
「仕様がないじゃないか。テストひとつ受けないでは、ああするしかないだろう」
澤地は彼女の顔を見守りながら、洗い立ての髪の柔らかさを感じたが、身体をそっと引き離す。
「でも、悔しい……」と朱海は顔を伏せ、ぶるぶる震えている。そして、きっと顔を上げると、
「あたし、二学期からがんばるよ。このままじゃ嫌!」と唇をかんだ。
「俺もおまえにとことん付き合ってやる」
澤地は頷いた。
「澤地先生」
振り返ると安藤先生が立っていた。
「式が始まります」
「ああ、すぐに……」
澤地はもう一度朱海に目を戻した。彼女は礼をし、二、三歩行ったところで安藤先生にもそれと分かるか分からないように頭を下げて、そのまま駆け去って行った。廊下の角に彼女が消えたとき、その姿がもう二度とこちらに戻って来ないような気がして彼は後悔のようなものを感じた。
「山岡さん、泣いていたみたいですね」
安藤先生は流れるような視線を向けた。
「ええ、いろいろあって落ち着いて勉強できなかったもんですから」
澤地はそう言って歩き出した。
「大丈夫ですわよ。彼女なら、すぐに取り戻せますわ」と、安藤先生は歌うように言った。
「そうなら良いんですが」
澤地は廊下の角に白く消えたものを見ていた。はっきり口に出した以上、また島に来るしかないだろうと彼は思った。

第十八章

取材に協力してくれたお礼に夏休みに内地に招待して夢をひとつ叶えてあげようと小林に言われたとき、朱海はすかさずプロ野球を観戦したいと申し出た。
彼は暫く沈黙した後、
「原宿と言わないだけでも偉いよ」と言った後、
「朱海ちゃんは男みたいだね」とクスクスと笑った。
新聞社が用意した品川のホテルに入ったのは八月の最初の日だった。登代は銀行に用事があるからと言ってホテルを出たきり、十一時になっても、十二時になっても戻らなかった。朱海は新聞社に電話をし、ありのままを言ったが、小林は、
「撮影は明日にしようか」と言って電話を切った。
登代は一時頃戻ったが、
「おまえ、食事は済ませたのかい」と額の汗を拭き拭き聞いた。
「何言ってるんよ! 新聞社に出掛ける予定だったって言ったでしょ」
ホテルの中とは言え、その大声は廊下にまで響いたかも知れなかった。
「あ、そうだったね。御免よ」と登代は椅子に腰を落とした。
「でも、お母さんがあんまり遅いから小林さんに電話して、明日にしてもらったわ」と朱海も体を投げ出すようにして椅子に座った。
「そうかい。悪かったね」と登代はハンカチを顔に当てる。ときどき、目にも当てているところを朱海は気づいて、
「どうしたんよ?」と聞いた。
「何でもないよ、おまえの心配するようなことじゃない」
「じゃ、お母さんがひとりで心配することなわけ?」
「そう、あたしひとりでたくさんだよ、こんなことは……」
「東京へはあたし一人で来ればよかったね」
朱海はふくれっ面を作り、駄々をこねた。銀行で融資の話がうまく行かなかったに違いない。噴火で充分な補償金が貰えなかったのと、手術で大金が出たのとで相当の借金をここ数か月の内に抱え込んだらしいのは彼女でも薄々感付いていた。
午後から登代はまたどこかに出掛けた。そして、夕方疲れ切った表情で帰って来た。
「ねえ、もう島に帰ろう……」
朱海は登代のベッドに並んで坐ると肩に頭を乗せて言った。もう怒る元気もなかった。
「ああ、帰ろう、帰ろう」と登代も頷いたが、どこか上の空だった。そして、夜はいままでついぞかいたこともない大鼾をかいて寝ていた。高血圧特有の腫れぼったい顔をてかてかに光らせている。
「お母さん、大丈夫?」
朱海は登代の側に顔を寄せて囁いた。
「朱海かい……」と登代は薄目を開けた。
「うん、お母さん、こっちに寝て良い?」と朱海は甘えた。
「ああ、良いよ」と登代は掛け物を上げて少し場所を移動した。朱海はその中に滑り込むと目を閉じた。
「朱海、おまえ海女をやってみる気はないかい?」と寝物語でもするように登代は言った。
「ええっ?」
朱海はぱっちりと目を開けた。
「さっき電話していた人は、その昔あたしらと一緒に海女商売をやってた人でね、今は房州の漁業組合の良い顔になっているんだよ。おまえのことを話すとぜひ連れて来てくれって、そりゃ大乗り気でね」
「海女って、今直ぐになるん?」
「まさか。おまえの好きなときで良いんだけど……」
「あたし、その人と会うん?」
「まだ高校生ですからって、断って来たけど、卒業したら一度会ってみると良いよ。きさくで良い人だから、きっとおまえも気に入るよ」
「ふうん」と朱海は鼻を鳴らし、寝たまま上目使いに母を見たが、二人ともそのまま眠気に囚われて寝入ってしまった。
翌日、登代は宮城に行きたいと言い出した。最初、野球場のことかと思ったが皇居のことと分かり、どうしてと朱海は訝った。
「おじいちゃんは若い頃、儀仗兵をやっていたんだよ」と登代は姿見に向かって着物の襟元を直し、朱海の方にいたずらっぽい目を流すと、帯びのあたりをポンポンと音をさせて叩いた。
「儀仗兵! おじいちゃんが儀仗兵!」
朱海は半ば呆れて眉をひそめた。登代は笑いだし、
「嘘じゃないよ。勲章も貰っているしね」とまともな顔を向けた。
「信じられないよ。でも、若い頃は誰にでもあったんだし、おじいちゃんだけが始めからああじゃかわいそうだものね」と、朱海は分別臭い顔をして言ったが、登代は笑い転げた。
小林に電話して新聞社に行けなくなったこと、宮城に母と行くことになったことなどを話すと、宮内庁の記者クラブから人と車を回すからホテルで待ってろと言う。
「朱海ちゃん、君は本当に良い子だねえ」と小林は感心した風に言い、いきなりガチャリと電話を切った。二度も約束を破ったので怒らせてしまったのか、良い子だねと言われたのは悪い子の反語かも知れないと思って心が重くなった。しかし、ものの三十分もしないで本当に記者とカメラマンが新聞社の車で迎えに来たのには朱海も登代も仰天してしまった。車の中で取材され、源造が儀仗兵として詰めていたのは赤坂離宮と分かって、車をその方に回したりと慌ただしいことになった。日頃は入れないような内部にも記者の顔でフリーパスという幸運に恵まれ、登代も存分に源造の供養が出来たと喜んだ。
「二十年前の噴火で夫である繁造さんを亡くされ、今度は義父の源造さんと、お二人の犠牲者を出したことについてはどう思われますか」
「はあ、何とも言葉がございません……」と登代は昔の儀仗兵の詰所らしいところに立たされて目にハンカチを当てた。シャッターの粘り着くような音が続いて、カメラマンがゆっくりと登代の回りを回る。これで東京に出て来た甲斐があったと朱海は思った。外に出て車が坂を下っている間、右手に赤坂離宮の長い石垣の土手が見えていた。
ホテルに帰ってレストランで食事をし、島の友達にテーブルで絵ハガキを書いていると、電話に呼び出されていた登代が戻って来て、これから房州に行くと言う。
「いつまでも新聞社の人に迷惑は掛けられないじゃないか。それに今度出て来るといったっていつになるか分からないし、先方ではぜひおまえに会いたいって言ってるんだよ」
「ええ、今から?」と朱海はげんなりする。
「房州は良いところだよ、とうちゃんと知り合ったのも房州だったし……」
「へえ、本当」
朱海は上目使いに登代を見、両手に顎を乗せてふっと笑った。
「何だね、この子は」と、登代は顔を赤らめ追い立てるように朱海を立たせた。
新聞社に電話しても小林は捕まえられなかった。清原もいない。お母さんのお友達の家に行きますとのみ伝言を残し、またこちらから電話しますということで、すぐにホテルを出て千葉に向かった。
昨日の夜中に登代の口から出た海女の話もどこまで本気か分からない。それとも、母は自分を本物の海女にしようと真剣に考えているのだろうか。海女にはなりたいし、それで文句はないつもりだったが、借金の形に取られるようなことだけは絶対に嫌だった。
勤め帰りのサラリーマンが多くて電車は混んでいた。しかし、千葉の半島を南へ南へと下るにつれて車内も空いて来た。乗り換えでホームで待っているとき女子高校生たちが手に手にアイスクリームを持って階段を下りて来た。登代はベンチで暑いを連発し、朱海にハンカチを濡らしにやらせたが、部活の帰りらしいその同年代の集団と擦れ違ったとき彼女は挑発的な目で見られた。水道でハンカチを濡らしそれを強く搾っていると、背後でどっと笑い声が起こった。振り返りはしなかったが自分が笑われているのは確かだった。彼女は耳の辺りに熱くたぎるものを感じたが、態とそれを無視してベンチに戻った。

「どうしたんだね、ぶすっとして」
登代はハンカチを受け取るとそれを太った首の裏に当てて溜め息をついた。
「何も話すことがないから」と朱海は声を震わせると、怒ったように唇をきつく結んだ。車中でも母とほとんど口を利かなかったが、特に大きめの白い帽子は人目をひいたからそれを隠すようにし、膝の上に置いたり、脇の下に挟んだりと大変だった。安物が一目で見抜かれてしまいそうで怖かった。
「ねえ、お母さん、アイス買って」と甘える声が出たのは、もう夜も更け、電車も終点に近づいてからだった。
「駅に迎えに来ているそうだから」と、今度は登代の方が緊張している。しかし、駅には誰も来ていず、電話して漸く車で迎えに来てくれただけだった。てっきり海に近い鄙びた漁村かと思ったら、駅前は商店街の並ぶ繁華街などもあり、この辺は東京からも通勤する人が移って来て、開発も進んでいるとハンドルを握った男はつれづれに話してくれた。どちらにしても真っ暗やみを車のライトを頼りに走るだけで、欝蒼と繁る山の中にどんどん入って行くような感じだった。
「おかみさんはお客さんを離れに案内するように言われましたので、そっちに回ります」と男はハンドルを切りながら言った。
「この近くに海があるの?」と朱海はいよいよ不思議に思って聞くと、海はあるが車で三十分以上もかかるということだった。
案内された離れの一間は八畳ほどの日本間で、床には掛軸が下がり、松の木の盆栽もあった。縁側に出ると外灯に照らし出され鯉の泳ぐ池まで見渡せる。同じような部屋が向かいの母屋の他にもありそうで、あまりの豪華さに朱海は帽子を取って呆然と佇んでいた。
「この家、何人家族なの?」
暫くして振り返ると、登代は応接台の上に灰皿を乗せて、タバコに火を付けたところだった。
「いやね、昔吸ってたんだが、久しぶりに会って、また復活しちまったんだよ」と金歯を見せて笑い、驚いたかいと煙を吐いた。
「何だ、そうだったん。じゃ、あたしも頂戴」
朱海はぺたんと前に坐った。
「あれ、おまえもやっていたのかい?」
「やっていないけど」と、朱海は応接台に腕を置きその上に頬をつけると、指でタバコの箱を押した。
「お待たせ!」と、いきなり廊下から現れたのは歳の頃は六十前後の婦人で、髪はすでにほとんどグレーがかっていた。
「民ちゃんよ、朱海、昔の好敵手よ」と登代はつけたばかりのタバコをもみ消しながら言った。
朱海ははにかみながらも自分の名前を言って、頭を下げた。
「意外に小柄ね、登代さんの半分もないじゃない?」
「あら、その言い方は昔のままね」と登代は口をおさえ、二人顔を見合わせて吹き出した。しかし、朱海はこの最初の一撃で打ちのめされてしまっていた。
顔を見合わせる早々二人は話が弾んで朱海は置いてきぼりをくっていたが、見ただけで双子と分かる女の子が二人駆け込んで来るに及んで、
「あら、御免なさい、食事の用意ができたって呼びに来たのに忘れちゃって」と、朱海の方を見た。
「これはね、長女の子供たちよ。この下に生まれたばかりの男の子がいるんだけど、とにかく行けば分かるわ」と、でっぷりした体を起こし、孫たちの手を取った。
母屋へは池のある庭を一回りする造りになっていたが、屋敷内の渡り廊下から月を眺められるなんて、朱海は生まれて初めての体験だった。
広い座敷ではもう座が沸き立っていて、畳敷きの部屋の中央にざっと見ても十人ばかりの人が坐って彼女たちを迎えた。朱海はただただ圧倒されて、紹介される一人ひとりに機械的に頭を下げていたので、誰が誰なのかさっぱり分からないまま、気が付いたら皆と同じように青い座布団に坐らされていた。清々しい和服に黒い帯をした老人がこの家の主らしい。他に背広姿の二十代と三十代の男性が二人、座を明るく取り持っていた。上の方がさきほどの双子の女の子たちの親らしい。下の方は隣に坐っているOL風の女性と近々結婚すると紹介された。幼稚園児位の女の子と、後は中学生の男女がそれぞれ母親らしい人の側に坐って居たが、どちらが誰の子であるのか、二人とも同じ親の子供かまったく分からなかった。
食事が始まっても黙って箸を使っているだけの朱海に、
「緑島の噴火は大変だったでしょう?」と主人が声を掛けてくれた。顔を上げればほとんど正面にその老人は坐っていた。しかし、朱海は耳まで真っ赤にして俯いただけだった。この家が自分の将来にきっと決定的な意味を持つであろうことはすでに感じ取っていたが、それがどういう性質のものかあれこれ空想していたのである。たとえば、自分のすぐ隣にいる中学二年生の少年がいずれ自分に恋するようになり、結婚をせがまれてとうとうこの家の奥さんにさせられる夢とか、ミニスカートの若いOLからビールを注いで貰っている男性がたまたま自分を気に入りその浮気がバレて駆け落ちを強要される場面とかである。
「この子は人見知りするんです」と登代が頭を下げるのに、そりゃ生娘だものと奥さんが抑揚をつけて言った。
