雨の訪問者


雨の訪問者

── HP紹介文と第1章より ──

私はこのWebサイトの管理人 Mr.Edo と申します。今、大事なお客様をお迎えしますのでよかったらご一緒してくださいませ。こう申しますのも、このサイトの立ち上げをします意義も目的もすべてがその方とのやりとりで明らかになるかと思うからでございます。

Mr.Edo:お、お見えになったようです。

来訪者:倉智と申します。

Mr.Edo:初めまして、どうぞこちらへおすすみください。あいにくの雨で大変だったでしょう。

来訪者:梅雨ですから。しかし、今日の雨はすごいですね。

Mr.Edo:傘とカッパはその辺においてくだされば。車で来られましたか?

来訪者:駅からタクシーを拾おうとしたのですが、長蛇の列で、約束の時間に遅れるので、そのまま雨の中に駆 け出してしまいました。

Mr.Edo:それは災難でしたね。実は今日もうひとり来ることになっていまして、なんて日なんだ!

来訪者:私のような依頼人ですか。

Mr.Edo:いえ、わたしの右腕になる技術者なのですがね、アメリカから間もなく着くはずなんです。三時の便とか言っていました。

来訪者 :アメリカから、日本人?

Mr.Edo:ああ、言葉なら心配いりません。日本語はペラペラです。数か国語に通じているとか言っていました。難関試験にもいくつか合格したという経歴の持ち主です。シリコンバレーの何とかいう研究所に勤めていたんですが、キャリアを積みたいからって、うちに応募してきたんで、面接後採用しました。

  

来訪者:ほう、それは期待できますね。

  

Mr.Edo:まだ若いから、いろいろ経験して一人前になっていくんでしょうがね。将棋が趣味で、日本を選んだ理由もその辺にあるのかもしれません。

  

来訪者:あなたも将棋をやられるんですか。

  

Mr.Edo:いえ、全然。この前も電話でお話ししたように自分はUnityでゲームを開発してきたものですから、3DCGを本格的にやりたいと、それだけです。あなたは将棋とかやられるんですか。

  

依頼者:子供のころに父親とちょっとやった程度ですね。自分は勝負事には向きません。

  

Mr.Edo:そうですか。いや、もし何なら、折角ですから、その技術者とお会いになって行かれますか

  

依頼者:いやいや、それは次の機会で結構です。わたしは所用があって、7時には葉山に戻らなければならないものですから。

     

第一章

二千五百トンのグリーンランド丸は月曜と金曜の週二日のみ緑島へ向けて伊豆・下田港を出航する老朽船で、他の伊豆諸島に向かう定期便の高速船や高速艇の半分にも満たない乗客しか運ばないので、いつ廃止されてもおかしくない赤字線となっていた。

この赤字線を迎え入れる緑島も他の伊豆の島々から離れて独り海の中に浮かんでいるような孤独な島で、その島影がめっかり(クボガイ)の形に似ていることから子供にでもそう呼ばれたのか、めっかり島という通称をいつの頃からか貰っていた。

そのめっかり島が南の水平線の彼方に芥子粒ほどに見えてくるのは通常は出航の翌日の午後一時ということになっている。

まだ四月になったばかりで春休みの子供連れが目立った。そのほとんどが三、四人のグループで子供たちは長時間の船旅に飽きたのか頭をぐらつかせるようにして親の顔を見上げたりしている。

上階の大部屋は釣り道具で陣地を築いた男たちが顔に帽子を乗せて寝ているしその向こうにはバイク乗りの革ジャンパー姿の若者たちが缶詰を囲んでの自製の食事の最中だった。トランプをやる学生たちから喚声があがったりして一見楽しんでいるようだが、どの顔も睡眠不足のうつろな目を泳がせている。彼らとて惰性で暇を潰しているに過ぎないのだった。

一等船室は空いている部屋もあり十人程度に詰まっている部屋もある。通路を歩きながらそれらの部屋のガラス窓から青く霞んだ島影が見えた。気づかない内に意外に島に近づいていたようだ。澤地は右舷のデッキに出る分厚い扉を押し開け外へ出た。と、突然波の騒ぎと湿った潮風が共に吹き付けてきた。新鮮な空気に顔をふさがれ彼は一瞬息ができなくなった。と、腹の底まで目が覚めたような気がした。

下田港を出てもうかれこれ二十時間も船に揺られてきたが、彼が舷側に立ったのは初めてで手摺にそって船首の方にぶらぶら歩きながら海を覗いたりした。

緑島の高校に赴任が決まってから澤地は二度島に渡っていた。七年前、学生の頃に一度ぶらっと島を訪れたときを入れると今度が四度目になる。そして今度こそ何年勤まるか分からないが長の滞在になる予定の渡島だった。引越しは前回の渡島ですっかり済ませていたし関係者への赴任の挨拶も一通り終わっていたので、そういう意味では身軽な旅だった。彼は三十歳の今日にいたるまで妻も子もいない。

緑島の崎山港が近づいてくるにつれて乗船客たちが三三五五出口に集まってきた。旅の無聊を慰めるような薄い音楽に誘われて地下の船室からも続々と人々が現れた。その中に女子大生風のグループがいて楽しそうに話しながら階段をのぼってきた。その中の一人、髪を長く垂らした色白の女が乗船のときから澤地の気に掛かっていたのだが、いざ後ろに立たれてみると彼は目の前を流れる風景に気もそぞろで何か声を掛けるきっかけはないものかと頭を巡らしたりした。

グリーンランド丸は高波に弄ばれながらも係の男たちによって纜をとられて桟橋に繋ぎ留められた。ハッチが開き乗客は澤地を先頭に桟橋に降りた。花火が上がり、流行歌が拡声マイクを通してがなり立てる。早速迎えの人たちが声高に客の名前を呼んだりする。彼は桟橋のコンクリートを固く感じた。潮風を味わうようにして空を眺めると、雑踏を抜けて大股に歩き出した。彼は皆から一人離れ過ぎたことに気づき立ち止まろうとしたが、

「先生、お迎えに上がりました」といきなり見知らぬ老人に声を掛けられ些か驚いた。

「あなたは……」

「増田港の漁師で源造と言います。この船で先生が着きなさるちゅうで、三輪屋のおかみに頼まれてお迎えに上がりました。荷物を持ちましょう」

源造はそう言って澤地の手荷物を取った。澤地は十メートルも離れた他の乗客たちの方を見て、

「よくわたしと分かりましたね」と老人に目を戻した。

「崎山高校の職員室に初めておいでのとき、わしは荷受けに顔を出していましたで、はあお気づきにはならなかったと思いますが」

源造はそう話しながらも桟橋を素足でスタスタと歩いて行く。

「ああ、そうですか、ちっとも気づきませんでした」

澤地は老人に大きな荷物を持たせたのに恐縮しながら、彼の猫背の後を追った。

老人は港のへりをぐるっと回り込むように移動すると釣り舟の停泊する板張りの桟橋に向かった。澤地は手で彼を制したが声にはならなかった。丁度桟橋の上には遅れてきた乗客たちがゾロゾロと歩いてくるところだった。

「先生、ちいっと待っててくだせえ」

源造は手の荷物を下に置くと船に飛び移ってエンジンを掛けた。が、一発では掛からない。桟橋からやんやの喚声が上がり、中にはカメラを向ける者さえいた。

澤地は眉をひそめてそんな無神経な真似をする者たちを睨み付けたが分の悪いこと甚だしい。ついには、彼はあさっての方向に顔を背けてしまった。

「じいさん! これから釣りに行くのかい? 俺たちもちょっくら乗っけてくんねえかの」

天井の上からかぶさるような声だった。いまいましい奴がいたものだと、澤地は舌打ちしたが事はさらに拗れてきた。

「今日はこの島に赴任なさった先生を増田港の下宿までお送りしなきゃなんめえからのお。夜は夜で仕事が詰まってっから明日にもお伺いいたしますがな」

「じゃ、宿が決まったら電話するからよ、爺さんはどこにいるのかい」

「お幸さんに言付けてくれれば分かりますがの……」

源造は歯なしの口をもぐつかせて言った。漸くエンジンが掛かって、桟橋に澤地の手荷物を取りに戻った。

「え? じいさん、お幸さんってどこの誰だよ」

「この島のお幸さんを知らねえかの」

源造はむしろ驚いたように客たちを見上げて聞いた。

「この島は初めてだから知る訳ねえだろ」

そう言った側からどっと笑い声が上がった。一緒に笑っていた人群れの中から宿の旗を持った五十前後のおかみさんがしゃしゃり出て、

「あんた、お幸姉さんってのはあたしのことだよ、覚えときな」と太った絣の着物の胸をぽんと叩いた。

源造も頭のタオルを取って、そうだと大きく頷いて笑った。

「じゃ、姉さんのところに決めたよ。俺たち三人分の部屋を頼んだぜ」

「あいよっ!」とお幸は威勢の良い声でそれに応じた。

エンジンの音もけたたましく波を切り出した船は桟橋からぐんぐん離れて行った。春休みの家族連れが荷物を引きずるようにして桟橋から石の坂を登って行くのが見える。ライダー組の若者たちはまだ桟橋に居て、降ろされるバイクを下から見守っている。その他の大勢の人々も船会社の待合室に続く坂道をゆっくりとした足取りで移動していた。

島の木立を左手に見ながら船は全速力で波を切っている。松の木が良い格好に視界を遮る。水上から見ると島の様子がよく分かった。島を循環する道路の傾斜の具合や太平洋の波に洗われている崖の地層からこの島が大昔に海底噴火による隆起で出来上がったこととか港を離れると人家らしい人家は見当たらず住むに楽しいところでもなさそうだということとかである。

澤地は老人から顔を背けたままそのような移り行く景色に目をやっていた。

「だんなさん、その先でちょっくら用事を果しますで、辛抱してくだせえまし」

「おいおい、だんなさんは止してくださいよ。わたしはそんなたいそうな人ではないんだから」

「じゃが、この島で先生さんを呼ぶときは大体そういう呼び方をしていましたがの、気に障ったら堪忍してくだせえ」

艫に坐った源造はにっと笑ってタオルを頭に巻いた。

「別に呼び方なんかどうだっていいけど、澤地という名があるんだから、それを呼んで貰えればいい。これは前の学校で使っていた名刺だけど源造さんにあげましょう」

澤地は胸の札入れから名刺を取り出すと源造の皺だらけの手にそれを置いた。しかし、彼はそれに見向きもせず頭のタオルに插しただけだった。

「源造さんはこの島の生まれですか」

「はあ、そうですだ」とロープを巻き取りながら応えた。船を走らせながら船上を忙しく動き回っているのを見ると、老人が猫背なのも頷ける。日焼けした顔、ごわごわした動物の毛のような体毛がまばらに見える腕も赤銅色に輝いていた。

「奥さんは?」と問い掛けると、いやあと笑って手を振った。

「お子さんはいらっしゃるのでしょう?」

ゴホゴホッと老人は態と咳込んで、それきり仕事に戻り無言になってしまった。

澤地も口を噤み、左手に展開する島の様子を眺めていたが、かなり走ったと思われる頃、いきなり急峻な断崖絶壁が見えてきた。崖下の海にはこんもりと繁った浮き島が見える。ラクダの瘤のような格好で二つ海に突き出すように浮かんでいる。その島に立っていた白い人影が船を見付け手を振りながら波打ち際を駆け出した。海女の格好をしているようだ。

「ほれ、あいつですだ。わしの孫娘で朱海ち言います。今度高校二年に上がったと言うが、とんだはねっかえり者で、先生さ手こずらすかと思いますが、どうかかわいがってくだせえ」

他にも火を焚いて身を寄せ合っている女たちが見えたが、駆け出した少女は満身に喜びを現して若鮎のようにぴちぴち跳ねているのがよく分かった。

「元気の良い子ですね」

教師を何年もやっていると大体どの程度の子か見たらすぐ分かってしまう。もう新米とは言えない年齢になっている彼としても最近は当たらずとも遠からずという自負はあって、さてこの子はどうであろうという観察の目は無意識に働かせていた。

朱海を見付けてから船はエンジンを切り、波間に漂うに任せている。しかし、船まではかなりの距離がある。どうやって三、四十メートルはあろうかという水の間を縮めるのだろうか。澤地はまさかと思って源造を見たが、そのまさか通り何と少女はそのまま海に飛び込んだのだった。

「この寒いのに海に入るんですか」

「あいつは真冬でも海にもぐっとりますだ」

源造は煙管でいっぷくつけながら澤地の驚きに頓着なく孫娘を見ている。

「いや、しかし、……」と澤地はどもったが、現に水しぶきは上がっていた。

少女は船の数メートル位側まで桶を頭に乗せて泳いで来ると、いきなり自身は頭まですっぽりと波の中に没したのである。桶だけがぷかりぷかりと波間に弄ばれている。と、透明な水を通してすっと動く影が澤地の目に入った。少女は船の下を潜水艦のように潜り抜けてザザッという音と共に反対側の縁に浮き上がって来たのだった。桶は源造の差し出した長い竿で引っ掛けられてたぐり寄せられていた。

「おじいちゃん、タオルを取ってくれ!」

少女は水中メガネを取り濡れた髪をひと振りすると怒ったように言った。バスタオルが乱暴に投げられて少女の頭を包んだが、彼女はそれを跳ね上げて顔を現すと、黒目がちの両の瞳を澤地に向けた。とかく目と目が合うと、きつ過ぎたり、また力がなかったりして、妙なしこりが残るものだが、少女のそれには微塵の動揺もなかった。都会……とまでは言えなくても、静岡や熱海で出会った高校生たちにはなかった目の色だった。澤地は新鮮な感動に打たれた。

「ほら、早く上がれ!」

源造に促されて少女は船の中に転がり込んだ。

「この方は今度おまえらの高校に赴任して来なさった先生で……」と、源造は頭に差した名刺を取って遠目に見た。

「澤地、澤地ですよ」と彼は教える。

「そうそう、澤地先生とおっしゃる」

源造は無骨な手で名刺の表面についた海の水を袖で拭った。

澤地も紳士然と構えている場合でもないので、少女に二三学校のことについてもっともらしい質問をしてみた。ところが意外にもその答え方がまともなので彼は思わず少女を見守る目になった。痩せてみすぼらしいが年頃にもなればこれでも充分に娘盛りを迎えるだろうというような年寄りじみた感想を持ちながらである。

「勉強は面白いかな」

「……」

朱海はバスタオルで肩まですっぽり包んでいたが殊勝にもあごだけで頷いた。短い髪から潮水を垂らしながらそれを払いもせずに澤地を見ている。彼はネクタイの襟をホックで留めていたが、彼女はそれが珍しいのか彼の服装のいちいちを点検しているようでもあった。

いくら痩せてみすぼらしい体でも水で濡らした腰巻きはぴったり張り付いて目のやり場に困ってしまう。澤地はネクタイの襟のところを緩め、咳払いをして、

「君たちを教えるのが楽しみだな」と愛想らしいことを言った。

しかし、それは愛想でもなんでもなかった。彼はそのとき素直にそう思ったのであり、何のケレン味もなくそう言えたのである。応えたのは源造の方で、

「先生、このできそこないをよろしくお願いしますだ」と言って笑った。

「何さ、この死に損ないのもおろくじじィ!」

朱海は首のタオルを澤地の前に叩き付けると邪悪な目つきになってつかつかと老人の側に寄って行った。そして、老人が重箱の弁当を濡れた桶に詰めるのをじっと見下ろしていた。

「三時には戻れと言っとったから、波が高くならん前に引き上げろ」

「うん、分かってる」と少女は最後に細いポットを受け取って、存外素直に頷いた。

「それに、これ」と老人はお金を少し渡した。

少女はそれを腰に巻いた袋に入れた。

「じゃ、鱶に食われんように気を付けろ」ともうエンジンの紐を引く。爆音が澤地の腰の辺りに起こった。

少女が海に飛び込むか込まない内にもう船は走り出していた。澤地も後ろに頭を放られるようにして危うくひっくりかえるところだった。少女の頭が波間に見えたが、それも一瞬でエンジンの吐き出す淡い煙に紛れてすぐに見えなくなってしまった。

「偉いですね、もう海で働いているのですか」

「いゃあ、あいつはまだ一人前の海女ではございませんで」

「じゃ、修業中ですか」

「まあ、そんなところです。あいつの母親が海女やっとりましたで、血筋でしょうか。わしはあんまり感心せんですが……」

「はあ、そうですか」

船の中に彼女の使ったタオルが投げ捨てられている。それを引き寄せる訳にもいかず、かといって放置もできず、チラチラと目をやっていると、源造がそれを取り上げて首に掛けた。しかし、少女の髪から滴り落ちた滴は黒い跡となって澤地の足元の板を濡らしていた。

第二章

増田港は人家が数百のひなびた猟師の集落だった。まだ氷倉庫があったころは栄えたそうだが冷凍船が出来てからこっちすっかりさびれた港になったという。外海から入って来るとどんな時化のときでも湾内はすっかり凪いでいるらしい。ただ、狭い入江の特徴で切り立った崖の中を突風の吹き回しが襲い、必ずしもこの港が見た目ほど良い港ではないということだった。しかし、澤地が島へ来てから今日まで、すり鉢のような入江の内部は外部からの風を遮り朝も昼ものどかに落ち着いて、いたって静かな港だと思えた。

火山島のこの島には温泉が出る。この増田にも温泉場があって澤地もタオルを肩に気楽に行ってみた。なにしろ彼の下宿の前の山である。山裾の坂を挟んで百メートル程並ぶ人家の、そのほぼ真ん中の二階を彼は当分の住みかと定めたのだった。路地に面した雨戸を開けると正面に山の登り口が見える。側に、もう読めなくなった諏訪神社と書いた案内が立っている。彼は最初、苔の岩道を下駄履きで行ってひっくり返りそうになったが、それがまた野趣があっていいと思った。

「先生、あの湯に入れるようになったら島の男になんなさる」と下のおかみさんが言う。

「沸騰しているみたいですが……」

「あたしらは慣れとりますが、内地から来なさった人にはちいとばかし無理なようだの」

テーブルが三つで五、六人も入ればいっぱいになるような居酒屋を商いとするそのおかみさんが流しから色の悪い歯を見せて言ったものだ。彼女の夫は遠洋航海に出て、一年に一度しか帰らないそうである。

なるほど湯は熱い。とても入れそうもないほどに熱い。入ったら火傷をしそうである。水道があって水を足すというようなこともできない。粗末な板で蔽った小屋ばかりで何も湯を冷ます術はない。最初のとき澤地は裸になってからそれに気づき、自分の格好を見て思わず笑ってしまったのだった。ただ面白いことに年がら年中熱いとは限らないらしい。夕方、海の彼方に日が沈むころでかけると熱いには熱いが入れないというほどではないことに気づく。午前中も思いの外ぬるい。島の生活のスタートにこの湯の克服をといろいろ外部の条件を選んででかけてみた。しかし、下宿のおかみさんの言うようにいつでも入れるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだということが分かっただけだった。だから島に渡ってまだゆっくり風呂にも入っていないことになる。

下宿生活は学生時代に東京でしたが、東京でとは勝手が違ってまごついた。東京でのときはいつまで寝ていても、またいつ帰っても文句一つ言われなかったが、ここはいつ帰るのか、夕食はいつか、朝は早いのかといちいちうるさい。歳の三十にもなって中学生のような扱いをされるのはいささか迷惑である。それにこのおかみさんは朝にしろ夕べにしろ食事を持ってくるのが早すぎる。学校から帰ってネクタイをはずそうかというところに夕食の載った膳をもって現れたのにはびっくりさせられた。

「六時には戻るから、その後で」と出がけに言っておいたからである。

田舎ではバスがあまり走らないがこの島も例外ではない。一日の内にこの港に来るバスは十本余りだろう。だから帰宅時間の予想はつくのである。

澤地は夕食のことなんか忘れて学校前の売店でおむすびを三つも食べた後だったのでこの不意の襲撃には参った。食事を持って来るのも早ければ下げに来るのも早い。だから腹も空いていないのに豚汁から鮑までの豪華な夕食を平らげ、それ以来胃の具合が悪くなって体調を崩してしまった。

体調を崩す原因は無論それだけではない。慣れない土地で見知らぬ人たちの中で生活をする。それに生徒たちの出来の悪さは目を蔽うばかりである。源造の孫娘の朱海もとんだくわせもので、百人足らずの生徒しかいないとはいえ、彼女はその百人を輩下におさめた女王のような存在だと同僚で初めて口をきいた体育の保坂が教えてくれた。

「どういうことですか」

「この高校にも裏の事情があるということですよ」

保坂は体育館の倉庫前でマットを出す生徒たちに注意を与えていたが、最後の組が出て行くと倉庫の扉を閉め、澤地に目を向けて笑った。彼はTシャツの胸に下げたホイッスルを口にくわえて、ピッピイーと吹いて生徒たちを思い通りに動かした。

「三月もすれば分かりますよ」

「そうですか……」

そんなだから彼女に学力のがの字もあろう筈はなく、よくもあれで勉強が好きなんて言えたもんだと、澤地は呆れてしまった。もっとも彼女は彼の問い掛けに頷いただけだったが。 船でのことがあったので朱海は澤地に親しみを持ったらしい。よく職員室に顔を出しては質問をした。無論、彼にではない。他の教師にである。しかし、ちらちらと彼の方に視線を投げて寄越すところを見ると質問もいい加減なものだと分かった。また彼女は廊下で待ち伏せして、通り掛かった彼にこぼれるような笑みを向けて挨拶することもあった。

「あの子が勉強する気をみせるなんざ何年ぶりだろう。俺はあいつの中学の頃から知っているが珍しいことですよ」と朱海の遠い親戚にあたる地学の横山が教頭に話し掛ける。

教頭は奥の壁に禿げた頭をつけるようにふんぞりかえって新聞を読んでいたが、

「この間、山岡のお母さんに会って話したがそのせいでしょう」と机のお茶を口に運んだりしてご満悦の様子である。

「今学期は楽しみですな。あいつさえちゃんとしてくれると、学校中が見習いますから」と横山は他の教師たちを見回した。

職員室は十人分ほどの机が向かい合わせに置かれ、仕切りの本立てにびっしりと本が並び、その上にも堆く書類が山積みされているといった、規模は小さいがどこにでも見掛ける職員室の典型だった。校長室と応接室は別の棟にあり、ここでは教頭が支配者面をしていた。

「おかげさまで授業が大変やりやすいですよ」と本気でそう言う教師もいた。

澤地もそれは感じることができた。もし逆の目が出ていたら生徒の指導に随分と手間取ることになったろうと思う。しかし、それはそれこれはこれである。少女の目を見たときこの子はできると思った印象をかくも見事に覆されて気持ちのいい筈はない。彼女への失望は今や少し軽蔑を含んだ憎しみに変わりつつある。その証拠に彼女にどんな好意をみせられても、彼はそれを軽く受け流す程度で顔もまともに見ないでうっちゃっていた。

新しい職場のことは何れ慣れる日が来るとは思うが、やはり島の生活は妙に寂しくて、こればかりはそう簡単に慣れるという訳にはいかない。夕暮れ時、海に沈む日が雲を赤く染めたりする光景を目にすると寂しさが喉まで飛び出しそうになる。静岡や熱海に住んだときには繁華街の雑踏に身を置けば何となく紛れてしまう代物でも島ではそうはいかない。誰でもいいから話相手が欲しくなる。少々気にいらない相手でもここでならばすぐに打ち解けてしまうだろう。漁師たちが居酒屋で夜遅くまで歌っているような夜は殊更に旅愁を慰めてくれる人が欲しくなる。しかし、店に顔を出すと、

「あら、先生、何か?」とおかみさんは漁師たちとの会話を打ち切ってしまう。

「いや、別に……」と彼は遠慮してビールの一本も持ってすごすごと二階に上がらなければならない。

船で見掛けた女ばかりのグループは後で分かったが、崎山に新装オープンしたホテルのスナック・バーのホステスたちだった。たまたまバスで彼女たちと一緒になり、向こうも彼を覚えていて、短い言葉を交わす内にその内にと店に誘われたのである。

数日後、澤地は体育の保坂を誘ってその『海』というスナック・バーに行ったのだが、目当ての女はもう下田に帰ったとかで、気勢の挫かれること甚だしかった。他にホテルの泊り客が何人か来ていて一緒に飲むような格好になりホステスを挟んでの会話に適当に相槌を打ったりしてそれとなく目当ての女のことを聞くと、彼女は熱海の方に出す店の係になっていてもう島には来ないだろうということであった。彼女は仕事を兼ねて遊びに来ていたらしい。澤地は酔いが頭の方に回って悪い酒になりそうになるのを承知の上でいつまでもぐずぐずしていたが、いよいよ帰る段になって勘定を見て目の玉が飛び出した。

「高けえ酒だな!」と保坂も目を剥いたが、

「あたしたちにもおごってくれたんじゃないの、せんせい」とからかわれるように身を擦り寄せられて彼は口ごもってしまった。

ホテルの泊り客たちもレジに立ったが、彼らも法外な料金に喧嘩腰になった。たった数杯のウィスキーが五万ナリの勘定書に化けているのだがら無理もない。

「マスター、こら、出てこい!」と浴衣姿の客が喚き出す。ホステスと揉み合いになるわで、危ないと思った澤地は二人分の料金を払ってさっさと店を抜け出した。中では大荒れになった気配だった。ホテルを出るとき洗い場の方で鉄の鍋をひっくり返したような音がしたが、澤地と保坂は大笑いして歩き出していた。

島には唯一の図書館が高多にある。この図書館で澤地はすばらしい女性を見付けた。今はめったに見掛けなくなった女である。今というより、島の言い方を借りれば内地ではと言った方がいいかも知れない。美人の割にはもの慣れた感じで人の気を反らさない女である。こういう女となら安心して家庭を作れるのじゃないかと彼は勝手に空想して、もうものにしたような気になっている。ただ、下宿とはちょうど反対の北西にあるので日に何本もないバスで三十分も揺られて行き、そして戻らなければならない。数千冊の本と小じんまりした郷土資料館を管理するのが彼女の仕事で昼休みタイムだけ中二階の売店を開く中年の婦人が来る。その人が彼女を一度、

「みなこさん」と呼んだ。どんな字か分からない。しかし、面と向かって名前を呼ぶわけでもなし、彼はそれに美奈子という字を当てた。またその語感が彼女にぴったり来るのである。

五十人かそこらの席しかない図書館にも時間帯によって小中学生が多かったり主婦が多かったりした。子供連れで絵本を見に来る人もいた。

図書館は山の中腹にあって自然そのものに包まれている。二階のベランダからの眺めは雄大ですばらしかった。黒潮の波で洗われる海岸線は天然の刻んだ凸凹を縁取ってやさしく、海面は空を映して静かだった。海鳥の波音に紛れて届く声に耳を傾けていると悠久の時を感じる。目を山の方に転じると崎山の稜線は緑で覆われ深くえぐれた谷に沈んでいる。

その谷を溶岩の黒い道が一巡りして崎山の方に消えている様が異様なものとして映る他はどこまでも広大な自然が続いている。

何度目かに訪れたとき、澤地は図書貸出証の登録をしたのだが、彼が島の高校に赴任したばかりだと知ると彼女は急に打ち解けて島のことをいろいろ教えてくれた。ガイドの経験があるとかで、それこそ何からなにまでよく知っていた。郷土資料室には自ら案内に立ってくれ、島の成り立ちから歴史、政治向きのことや予算のことまで説明した。

資料室には崎山の噴火当時のパネル写真が拡大して掛けてあり、二十年前の噴火のとき溶岩流が港を襲って家屋を押し流したが、今も住民の移動はほとんどなく、溶岩の上に家を建てて前と同じ生活を営んでいるという説明文がつけてあったりした。彼は彼女の後から黙ってそれらパネル写真を見て回った。

黒々とした闇を背景にして溶鉱炉のような噴火口から盛んなマグマが噴き上がる様は現実のものとは思えなかった。

「あたしはまだ小学校にも上がっていなかったからよく覚えていないけど、山からオレンジ色の溶岩が流れて来るのを避難した船の中から見たわ。犬が興奮してワンワン吠えていたのを覚えている……」

美奈子は澤地に話すというより、遠い記憶に語りかけているような感じで細い顎に指を突いて写真を見上げていた。

「住民の移動がないというのは他に行く土地がないからですか」

澤地は美奈子に顔を戻すと不躾にも聞いてみた。

「さあ、家族のことがあるからじゃないかしら。よくは分からないけど……」と彼女は先に立って部屋を出ながら言った。

「噴火のときの恐怖はどうでしたか」

パネルの写真に未練を残しながら彼も部屋を出た。彼女はそれを待ってドアを閉め、

「子供だから怖さはなかったわね。ただ、熱かった。髪の毛も手も足も何もかも燃えてしまうような感じで……」とさり気なく髪を掻き上げ細い腕を組んだ。

「それにしてもわざわざ前と同じ土地に、それも溶岩流跡の上に新しい家を建てて以前と変わらない生活を続けているなんて考えられないな」

美奈子が中二階の売店に入るのにも彼はついて行った。彼女は勝手知ったカウンターに入るとコーヒーを入れてくれることになった。客のいないテーブルのひとつに彼はついてタバコをくわえた。

「都会の人が聞いたらおかしいと思うでしょうね」

「ぼくは都会人じゃないですけど火山については学生時代からちょっと興味を持っていたんです」

「あなた一体何の先生なんですか」と彼女は探るような目になって聞いた。

「英語ですよ」と澤地は頭に手をやって照れた。しかし、それならなおさら妙に取られ兼ねないと、

「実は七年前の学生のとき一度島を訪れ、あの溶岩跡を見て回ったことがあるんです」と窓の方にちらっと目をやった。案の定、彼女は首を傾げ、

「火山の研究をなさっている方なの」と聞いた。

「その手の同好会に属している訳じゃないですが、自分で本などよく読みましたね。実際に噴火があった割には島の人の反応は概して無関心ですし、被害の大きさは話題にしても、まるで楽しい思い出を語るときのように話されるでしょう」

澤地はいぶかるように言って彼女を見守った。

「そうかしら……」

彼女は文字通り棒立ちになってしばらく考えた。

「そう言えば皆さん帰って来ましたねえ。東京などの親戚の家に行っていた人も別に土地を持っていた方も、なんでかしら…。でも、あなたは分かっていらっしゃるようね、この島の人でもないのに」

コーヒーを運んで来ると、彼女はテーブルに頬づえをついてタバコをくゆらしている澤地を見下ろす位置に立ち、腰に手を当てた。

「あれだけの噴火があって、行方不明が一人だけというのだから、まあよしとしなきゃならないなんて言っていた島の年寄りの言葉が昨日のことのように思い出されますね……」

その日はそれぎり話を打ち切って、最終バスに乗って帰ったが、彼女は彼の言葉に興味を唆られたらしいことは確かだった。

それから一週間後、図書館に登る山道で澤地は東京の美大の学生から声をかけられた。彼女は郷土資料室に入っても、あれは何これは何と彼に質問を浴びせてきた。歳は二十前後でこちらは美人とは言えないが快活そうでふくよかな感じのする女性だった。この島に絵を描きに来たと言い、くたびれたジーンズスタイルにスケッチの道具一式を引きずっていた。最初見たとき時代遅れのヒッピーかと思ったほどだ。

「こんな火山の島に住んでいて怖くないのかしら」

画学生は側に来た美奈子に目を移し、自分ならとても耐えられないと首を振って見せた。

「怖くないと言ったら嘘になるでしょうね」

彼女は年長者がするように画学生をやさしく見下ろし、微笑んだ。

「この噴火口に行ってみたいんですけど」

「駄目駄目、そんな気楽に行けるような場所じゃないよ」と、澤地はたしなめるように言った。

「行けるか行けないか聞いているんですけど」と彼女は不満顔になって言う。

「ほくだって登ってないんだよ。あんな所に女一人で行ける筈がない。自殺でもしようっていうんなら別だけどね」

「でも行けないことはないですよ。普通の足で三十分位かしら、子供たちはもっと早く行きますけど。今からじゃどっちにしても無理ね。もっと明るいうちから行かないと帰るに帰れなくなってしまうから」

「そう、それにバスを外すと高くつくよ」

澤地は時計を見て言った。前回彼女と話が弾んで最終バスになり、それが高多港行きだったのでハイヤーを使って島を半周しなければならなかった。高くついた上に二時間もかかってさんざんだった。

「明日の朝の船で帰るから、あたし、記念に噴火口を見ておきたいんです」

「もうかれこれ五時だよ、無理だね」

「連れて行っておあげになったら……。一本道ですし迷うことはないと思います。主人が六時に迎えに来てくれますので、車だったら心配ないですけど」

「ご主人がいらっしゃったんですか……」

「ええ、役場に勤めていますの。誰か留守番をしてくれたらあたしが案内できるんですけど、先生に頼むのも何だか……」

「一人で行きますからご心配なく」

画学生は荷物からオートカメラを出してもうすっかり出掛けるつもりになっている。

「分かった、分かった。じゃ、留守番をしていますから、彼女を連れていってあげてください」

澤地は十も老けたかのように威厳を保って頷いていた。

「そうですか、それじゃ、悪いですけど、ちょっとお願いできます?」と美奈子は本の整理のときに首から掛けている大きな前掛けを外して、セーターの裾を引いた。

二人は早速出掛けたが、澤地は一人貸出しのカウンターにすわって渋面を作っていた。

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